2017/10/13
日光街道ダイジェストウォーク【日光東照宮→今市宿】(その2)
足早に日光東照宮を見て回り、いよいよ街道歩き(ウォーキング)の開始です。日光東照宮参拝時は手ぶらだったのですが、一旦観光バスのところに戻り、リュックサックを受け取り、いつもの街道歩きと同じウォーキングスタイルに変身です。この日も暑い1日で、空を見上げると、いかにも大気の状態は不安定そうな感じです。リュックサックの中にはいつものように上下セパレートタイプとポンチョタイプの2つのレインコートを入れてあります。この日は妻と2人なのですが、レインコートが2つなので大丈夫です。妻のリュックサックの中にはオヤツとタオルくらいでしょうか(笑)
入念なストレッチ体操をして街道ウォーキングのスタートです。
日光街道は江戸時代に徳川幕府(江戸幕府)の政策として整備された「五街道」のひとつで、江戸幕府の主要道路として東海道に次いで整備され、寛永13年(1636年)、江戸日本橋~下野国日光の日光山にある徳川家康を祀る日光東照宮間が全通しました。正式な名称を「日光道中」と言います。もともと江戸の日本橋から宇都宮城(宇都宮宿)までの区間には古道の奥州道が通っており、その北部区間の宇都宮城下から鉢石宿間にも同じく古道の日光街道が通っていたのですが、その宇都宮~日光間の古道の日光街道の東側に新たにその道と並行するように設置された道が、日光街道です。
日光街道の敷設の目的としては歴代徳川将軍の東照大権現(初代将軍家康の霊廟)への参拝、すなわち日光東照宮への参詣であるといわれていますが、もともと五街道の整備を計画したのは徳川家康本人であり、論理的に考えてみると、どうもそういうことではなさそうです。実際、徳川幕府の歴代の将軍家が日光東照宮を参詣する折には、江戸城下の本郷追分から幸手宿までの日光御成道を通るのが通例であり、幸手宿から小山宿まで日光街道(この区間は奥州街道と重複)、小山宿以北は日光街道だけでなく、壬生通りおよび日光例幣使街道を経て日光(今市宿)へ至る経路も併せて用いられました。なので、この日光街道は単に日光東照宮への参詣のために整備されたと言うよりも、江戸から下野国を経て奥州方面に至る物流の動脈路線として計画、整備された道路であることが容易に推察されます。
奥州街道は江戸幕府を支える物流の大動脈で、東海道や中山道以上に力を入れて(お金をかけて)維持・整備する必要があり、そのための名目として日光東照宮への参詣を持ち出したのではないでしょうか。日光街道は江戸・日本橋から日光東照宮(日光坊中)までの間に21の宿場が設けられました。江戸の日本橋を出ると千住宿、草加宿、越ヶ谷宿、粕壁(春日部)宿、杉戸宿、幸手宿、栗橋宿、中田宿、古河宿、野木宿、間々田宿、小山宿、新田宿、小金井宿、石橋宿、雀宮宿を経て宇都宮宿。ここまではほぼ現在の国道4号線のルートと重なり、ここまでの17宿は奥州街道との重複区間でした。宇都宮宿に追分(分岐点)があり、ここで奥州街道と分かれ、ほぼ国道119号線と重なるルートを日光に向けて進むのですが、日光街道単独の宿場としてはそこから先の徳次郎宿、大沢宿、今市宿、鉢石宿の4宿しかありません。なんと21宿中17宿、率でいうと9割に近い区間が奥州街道との重複区間。それでもこの街道を五街道の1つとして日光街道と特別に呼び扱ったのは、 なんらかの意図があると思っています。それは奥州街道の整備。江戸幕府にとって東海道や中山道といった他の街道よりも重要な街道で、江戸幕府自体が直接整備・維持に乗り出す必要があったからだと私は推測しています。その際に日光東照宮への参詣は最適な名目でしたから。
実際、奥州街道は江戸の日本橋を起点として、福島県中通り南部に位置する白河へと至る街道でした。正式な名称は「奥州道中」。白河は奥州三関の一つ白河の関が置かれていたところで、陸奥国(みちのく)の玄関口として知られています。江戸時代初期には主に東北諸藩の参勤交代の交通・連絡に用いられましたが、江戸時代中期には陸奥国諸国及び蝦夷地(北海道)開発のため、江戸時代末期にはロシアからの蝦夷地防衛のために往来量が増加していっています。そもそも徳川家康が京都から離れた東国の江戸に幕府を開いたのも、まだまだ未開の部分が多い、すなわち将来性のある陸奥国諸国及び蝦夷地開発のためだとも推察できることから、この私の推察もあながち間違ってはいないと思っています。
かつて沿道には杉の木が道の両側に植えられていました。特に3代将軍・徳川家光の意を受けて日光東照宮の造営に従事した松平正綱は寛永2年(1625年)から東照宮への参道に杉の植樹を開始。24年の歳月をかけて植樹を続けたといわれています。現在も栃木県日光市の一部区間には「日光の杉並木」としてその杉並木が残されていて、「世界最長の並木道」と言われています。この日はそこを歩くのがメインということなので、楽しみです。
日本国内のリゾートホテルの先駆けとなった日光金谷ホテルです。妻は私と結婚する以前に友人達とこの日光金谷ホテルに泊まって日光東照宮を参拝したのだそうで、「ここ、泊まったことがあるぅ?!」と申しておりました。私はどこに泊まったのだろう。記憶にありません。
神橋(しんきょう)です。この神橋は世界文化遺産「日光の社寺」の玄関とも言える美しい橋です。二荒山(男体山)をご神体としてまつる日光二荒山神社の建造物で、日光山内の入り口にかかる木造朱塗りの美しい橋です。この橋は奈良時代の末に勝道上人が日光山を開く時、大谷川(だいやがわ)の急流に行く手を阻まれ神仏に加護を求めた際、深沙王(じんじゃおう)が現れ2匹の蛇を放ち、その蛇の背から山菅(やますげ)が生えて橋になったという伝説を持つ神聖な橋です。別名、山菅橋や山菅の蛇橋(じゃばし)とも呼ばれています。
現在のような朱塗りの橋になったのは寛永13年(1636年)の東照宮の大造替の時です。明治35年(1902年)にその時の橋は洪水で流されてしまいましたが、明治37年(1904年)に再建され、日本三大奇橋の1つに数えられています。橋の構造は“乳の木”と呼ばれる大木を両岸の土中・岩盤中に埋め込み、両岸から斜め上向きに突き出す。そしてこの両端に橋桁を渡して橋とする特殊な構造となっています。この工法は、現存する国の重要文化財指定の木造橋8基の中でも唯一のものなのだそうです。
その神橋の手前には日光東照宮や日光二荒山神社へ向かう参道が幾つも延びています。ん? ここまで歩いてきた道って昔の道じゃあなかったの?
現代の神橋を渡ります。下を流れている川は大谷川(だいやがわ)。利根川水系の鬼怒川の支流で、中禅寺湖に源を発しています。大谷川及びその支流には、華厳滝をはじめとして裏見滝、霧降の滝、寂光滝、白糸の滝など著名な滝が幾つもあります。中禅寺湖から流出してすぐに華厳滝となりますが、その中禅寺湖と華厳滝の間は海尻川または大尻川と呼ばれています。
神橋のたもとには「橘姫神」が祀られている橘姫神社があります。この神社の祭神である橘姫とは、日本書紀や古事記において日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃とされる弟橘媛(おとたちばなひめ)のことで、対岸の「深沙大王(じんじゃだいおう)」とともに男女一対で神橋の守護神となっています。そしてこの橘姫神は縁結びの神様でもあるそうです。
神橋のたもとには「天海大僧正」の銅像が立っています。
天海大僧正(慈眼大師)は天文5年(1536年)、陸奥国会津大沼郡高田郷の生まれと伝えられている天台宗の僧侶です。幼名は兵太郎、10歳のとき随風といい、55歳のとき天海と改められました。前半生は不明なことが多い謎の人物ですが、幼少より聡明で、14歳のとき宇都宮の粉川寺の皇舜僧正のもとで学び、更に比叡山延暦寺、三井寺、奈良の興福寺、足利学校、上野の善昌寺などで天台、法相、三論、禅、日本の古文学、儒教等様々なことを学びました。数々の寺院の住職となり、その間に武田信玄や後陽成天皇などに法を説き、慶長2年(1607年)、天海は比叡山延暦寺の南光坊に移って比叡山探題執行を命じられ、織田信長によって焼き討ちに遭った延暦寺再興にも尽力しました。そのため「南光坊天海」と呼ばれています。
徳川家康と初めて接見したのは慶長5年(1610年)、天海が75歳の時とされています。この時、天海は駿府城にて徳川家康の前で論議を開きました。この時、家康は68歳でしたが、天海に深く感銘し、「もっと早く天海に逢いたかった」と言うほどだったそうです。慶長18年(1613年)、天海78歳の時、日光山の住職となりました。出会うのが高齢になってからのことだったので、天海が生前、家康に仕えたのは僅かに7年間と短かったのですが、のちに二代将軍秀忠、三代将軍家光にも仕え、これら三代の将軍の家庭教師役・政治顧問・相談役等を務め、“黒衣の宰相”と呼ばれて徳川幕府のために尽力しました。 元和2年(1616年)、家康が75歳で亡くなると、天海は以前より残された遺言によって日光東照宮の造営を差配しました。その後は江戸の寛永寺と日光山の住職として活躍し、寛永20年(1643年)、東叡山において108歳で亡くなったと伝えられています。メチャメチャ長生きです。天海によって日光山は空前の繁栄をし、その功績を讃え、天海は「日光中興の祖」と呼ばれています。
中禅寺湖に向かう“いろは坂”を登ると「明智平」と呼ばれる素晴らしい景観の場所があります。名付けたのは天海大僧正だと言われており、このことから天海は明智光秀であったという歴史ミステリーのような説があります。その説によると、明智光秀は本能寺で織田信長を討ち、直後に中国大返しにより戻ってきた羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れ、一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも、致命傷を受けて自害したともされているのですが、最期が不明確なことから、襲われたのは実は影武者で、明智光秀は天台宗総本山の比叡山に身を寄せたとされています。比叡山延暦寺は織田信長に焼き討ちされたので、敵を討った明智光秀を匿い優遇し、出家した光秀を大僧正にまでならせたとされています。で、光秀は、その後、天海として家康、秀忠、家光という徳川三代の将軍に仕え、徳川幕府のために尽力したのですが、その天海大僧正が昔の自分の名をどこかに残しておきたくて、日光で一番眺めのよい場所を選んで、そこを「明智平」と命名したというのです。あくまでも一つの仮説に過ぎないのですが、なにが真実なのかは誰も分かっていないので、「邪馬台国は四国にあった」などという大胆すぎるくらいに大胆な仮説を唱えている私としては、こういうのもありかな…と思ってしまいます。なにより、実に浪漫があって、面白い!!
さらに神橋のたもとにはもう一体、刀を差して日光山を静かに見つめる一人の男の銅像が建てられています。その男の名は、板垣退助。板垣退助と言うと、明治維新後の新政府において内務大臣等の要職を歴任し、明治6年(1873年)、征韓論で敗れて西郷隆盛らと共に下野した後は自由民権運動に身を投じ、明治15年(1882年)、岐阜で遊説中に暴漢に襲われ負傷した際に発した「板垣死すとも自由は死せず」で有名になるなど、どうしても自由民権運動を推進した政治家というイメージが付きまといますが、彼の本質はむしろ軍事的な才能のほうにあったと言えます。
板垣退助は四国の土佐藩士でした。板垣退助が属した土佐藩は、幕末の最後まで非常に複雑な立場にいた藩でした。前土佐藩主・山内容堂は、幕府権力が衰退していく中でも、最後まで幕府擁護論を展開し、慶応4年(1868年)に起こった「鳥羽・伏見の戦い」においても、「この度の戦は、薩長と会津・桑名の私闘である」と藩内に宣言し、土佐藩兵に対しても、決して戦闘を行なってはならないと発砲禁止命令を出したほどです。しかしながら、土佐藩内の一部の倒幕派はその容堂の命令を無視し、独断で薩長の連合軍に加わり、その結果「鳥羽伏見の戦い」は、薩摩・長州・土佐“三藩の連合軍(官軍)”側の勝利に終わったことになりました。
鳥羽伏見の戦いが勃発した当時、板垣退助(当時は乾退助)は郷里の土佐にいたのですが、京都から鳥羽伏見開戦の報が土佐に届くと、板垣退助は土佐藩迅衝隊の大隊司令に任命され、土佐藩兵を率いて上京することになりました。鳥羽伏見の戦いの勝利で形勢が薩長有利となった今、土佐藩として、いつまでも幕府を擁護する立場を取ることは藩の自滅を招きかねないとの懸念から、急遽、薩長側として兵隊を京に送る必要が生じたためです。その司令官に板垣退助が任命されたのは、彼は以前、藩主山内容堂に対しても直接倒幕論を建白するなど、藩内の倒幕派の中心人物であり、藩主容堂の信頼も非常に厚い人物であったからでした。
土佐藩迅衝隊を率いて京都に入った板垣退助は、東山道先鋒総督府参謀を拝命し、一路江戸へ向かって進撃を開始しました。途中甲州の勝沼で、元新撰組の近藤勇率いる甲陽鎮撫隊を打ち破るなどの活躍を見せた板垣退助は、その後、旧幕府の歩兵奉行を務めた大鳥圭介率いる旧幕府伝習隊と相対することになりました。大鳥圭介率いる旧幕府伝習隊は、当時、関東地方を中心にゲリラ戦を展開しており、新政府は板垣退助に対し、その討伐を命じたのです。
板垣退助は土佐藩兵を率いて江戸を出発すると、壬生(現在の栃木県下都賀郡壬生町)において、大鳥圭介らが日光東照宮のある日光山を本拠として立て籠もっているとの情報を得ました。日光東照宮と言えば、江戸幕府を樹立した徳川家康の祖廟を祀り、文化財的にも非常に貴重な建築物です。板垣退助はそのような貴重な建物がこれから戦火によって焼失してしまうことを憂い、現在の栃木県鹿沼市において日光山の末寺を探させ、そこの僧侶を呼び出して次のように伝えました。
「日光にはただいま危機が迫っている。敵が日光に立て籠る限り、我々はこれを攻めなければならないが、そうなれば焼討ちにもかけねばなるまい。東照宮を尊敬するのならばいさぎよく撃って出て、今市(現在の栃木県今市市)で勝敗を決すべきではないか。あくまで日光に拠って戦うというのは東照宮(家康公)への不敬にあたるし、建築も兵火からまぬがれない。おぬし、この理を説いて徳川の将を説得せよ」
板垣退助は大鳥圭介ら旧幕府軍を日光から下山させ、貴重な建築物である日光東照宮を焼失から防ごうと考えたのです。この板垣退助の言葉に動かされた日光山の末寺の僧侶は、日光の本山へと向かい、そして大鳥圭介ら旧幕府軍の将兵達は板垣退助の発したこの言葉に心動かされ、最終的に日光山を下山することを承諾しました。
旧幕府軍が去り、後に日光東照宮に入った板垣は、兵士達に乱暴狼藉を働くことを厳しく禁止し、自らは旧来の作法にのっとって、神廟に拝礼の儀式を行なったと言われています。その板垣退助のとった立派な態度は、日光東照宮の僧侶達を感激させたと伝えられています。
日光東照宮が戦災を免れたのも、板垣退助という人物が居たからこそであったと言え、いつしか板垣は、「日光の恩人」と称されるようになったのだそうです。
昭和4年、板垣退助のこのような遺徳を讃えるため、日光山の山裾のこの神橋のたもとに、腕を組んで静かに日光を見つめる板垣退助の銅像が建てられました。銅像自体は第二次世界大戦の金属供出で一度撤去されてしまいますが、昭和42年、日光東照宮を救った板垣退助の業績を永久に残すべく、関係者の手によって再び銅像が再建されました。かつて日光東照宮を救った時のように、今もなお板垣退助は、静かに日光山を見守り続けているようです。
ここからが「鉢石宿(はついしじゅく)」です。鉢石宿は、日光街道の21番目の宿場で、日光街道のゴールである日光東照宮の門前町として大いに栄えたところです。天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によると、鉢石宿の本陣は2軒設けられ、旅籠が19軒、宿内の家数は223軒、人口は985人であったのだそうです。鉢石という地名の由来は文字どおり「鉢を伏せたような形状の石」で、大谷川の岸辺に直径2メートルほどの“鉢石”が今もあるのだそうです。日光山開祖である勝道上人が托鉢の途中、大谷川岸辺のこの石に座って日光山を仰いだと伝わっていて、日光開山以来、旅人の道標となっていました。
神橋のたもとには「日光のおいしい水」なるものが湧いています。これは『磐裂霊水(いわさくれいすい)』と呼ばれています。1200年以上昔、「日光開山の祖」と呼ばれている勝道上人がこの地に清水を発見し、以来、修験者が神仏に備えた霊水と伝えられています。この水は男体山系の湧き水で、日本で最も美味しい水であるとの定評があります…と説明板に書かれています。私も置いてある柄杓を使って飲んでみたのですが、日本一かどうかは分かりませんが、ちょっと冷たいので、真夏の太陽に照らされたこのような暑い日には確かに美味しく感じられます。
日光開山の祖として忘れてならないのがこの説明板にも登場する勝道上人(しょうどうしょうにん)です。
下野国が生んだ名僧、勝道上人は奈良時代の天平7年(735年)、現在の栃木県真岡市で生まれたと伝えられています。父は下野国府の役人、若田高藤で、母は国府に神主としてつとめていた吉田主典の娘、明寿と言われています。母の実家で誕生した上人は、幼名を藤糸丸(ふじいとまる)といいました。この誕生の地には後に仏生寺(ぶっしょうじ)という寺院が建てられています。仏生寺は、八溝山地(やみぞさんち)の西斜面にあたる錫杖ヶ峰(しゃくじょうがみね)の麓にあり、山門の両脇には、樹齢約700年の大ケヤキが聳えているのだそうです。
勝道上人は、幼い頃から神童と呼ばれ、若い頃には、現在の栃木市北西にある出流山(いずるさん)の岩窟に入り、3年間、仏の道を修行しました。その後、さらに3年間、山深く分け入って苦行を重ねた後、下野薬師寺に行き、有名な鑑真和上(がんじんわじょう)の弟子に仏教の教えを受け、僧の資格を授かり、勝道と名乗りました。
31歳の時、勝道上人は、下野薬師寺を出て、大剣ヶ峰(だいけんがみね:横根山)に登り、そこでの1年間の修行の後、北方に聳える二荒山(ふたらさん:男体山)を目指し、まずは精進岳(しょうじんだけ)に辿り着きました。一度下山して大谷川(だいやがわ)を渡り、対岸の二荒山に行こうとしましたが、谷深く流れの激しいこの川をなかなか渡ることができませんでした。この時、神仏に祈り、神の助けで川を渡ったという伝説があります。その伝説の橋が山菅橋(やますげばし)で、現在の神橋(しんきょう)であることは前述のとおりです。
大谷川を渡った上人は、そこに、四本竜寺(しほんりゅうじ)を建てました。その寺が、日光山で最も古い寺である輪王寺(りんのうじ)の起こりであると言われています。その後、上人は山の霊の力を身に付け、自分の信仰を完全なものにしようと考え、僧としてこれまで誰も登ったことのない二荒山(男体山)の登頂を目指しましたが、今度は原始林に阻まれ、失敗に終わりました。
延暦元年(782年)、勝道上人は、3度目の登頂を目指しました。神々に祈りながら、決死の覚悟で山頂を目指した勝道上人は、とうとう男体山の頂上に登りつくことができたと伝えられています。上人は、その後、中禅寺湖のほとりに、神宮寺を建てて、自作の「立木観音(たちきかんのん)」を本尊に祀ったり、二荒山神社を建てたりして、今日まで続く聖地・日光の基礎を作りました。勝道上人は、弘仁8年(817年)に82歳で亡くなったと伝えられていますが、今でも「日光開山の祖」として、人々に尊ばれています。
さらにこの霊水の名称にもなっている「磐裂(いわさく)」ですが、これは下野国(現在の栃木県)の土着の神と言われる磐裂神(いわさくのかみ)と根裂神(ねさくのかみ)のうちの磐裂神に由来した名称です。勝道上人の日光登山の成功は、この盤裂神の助けによるものとされていて、現在、栃木県の日光市(今市を含む)や鹿沼市周辺には盤裂神・根裂神を祭神とし、本地仏を虚空蔵菩薩とする複数の磐裂神社、根裂神社、磐裂根裂神社があるのだそうです。
『磐裂霊水』の傍らに鉢石宿から日光東照宮にかけての案内表示が出ています。ふむふむ、なるほどぉ~。
ここから鉢石宿内を歩いていくのかな…と思ったのですが、どうもそうではなさそうです。日光街道そのものではなく、日光街道から1本北側に入った並行する生活道路のような道路を歩いていきます。
この「五街道ダイジェストウォーク」、歩く区間も見どころが多い区間のダイジェストということに加え、その区間内でも旧街道のところは見どころの部分だけを歩くようです。歩き始めて、初めて気が付いたのですが、どうもこの旅行会社のウォーキング企画は歩くこと(ウォーキング)そのものを目的としているようなところがあり、私がいつも利用している某旅行会社の「中山道六十九次・街道歩き」とは、そもそもの目的、と言うか企画のコンセプトが異なっているようです。
「中山道六十九次・街道歩き」は歴史探訪の色彩が強く、時には廃道かと見まがうようなワイルドな道を通ったりして旧街道の跡をひたすら忠実に辿り、各宿場の町並みをはじめ途中の史跡や遺構などで説明を聞いて、旧街道の全盛期(人や物が盛んに行き来していた当時)に思いを馳せたり、地形からなぜここを旧街道が通っていたのかを推察してみたりと、どちらかと言えば“文化サークル系”の企画と言えるのですが、この「五街道ダイジェストウォーク」のほうはと言えばそういうことはちょっと軽視していて、とにかく歩くことが主体の“体育会系”の企画のようなんです。どうも旅行会社によって企画のコンセプトが全く異なるようです。
今回参加している皆さんもこの旅行会社のウォーキングツアーの常連さんが多く、このコンセプトを十分理解しているようで、まったく文句は出ないようです。その証拠と言いますか、皆さん、歩く速度が異様に速いのです。私も「中山道六十九次・街道歩き」に毎月参加し、歩くことには慣れているつもりでいたのですが、このペースの違いに戸惑うほどでした。しかも、途中、立ち止まることなく、ただひたすら歩きます。旧街道そのものではなく、1本入った並行する生活道路を通るのもそのためのようです。旧街道は今でも主要道路であったりするので、クルマの通行量も多く、交差点での信号待ちや横断歩道を渡るためところどころで立ち止まらないといけませんからね。なるほど、そういうことか…と気づきました。生活道路を歩くので、当然のこととして途中で立ち止まってなにかの説明を受けることもありません。
いつもの街道歩きの習性で、道の両側になにか歴史を感じさせるものがないかキョロキョロしながら歩いていると、気がつけば列の最後尾。立ち止まって写真を撮ったりしようものなら、その後、走って追いつかないといけないほどです。その都度、妻からは「パパ、なにやってんの! おいてかれるよ!」と叱られる始末。皆さん、とにかく速いのです。でもまぁ~、こういうのもありかな…って思います。昔の人は信号機のたびに立ち止まることもなく、また、途中で史跡の説明を受けることもなく、ただひたすら目的地を目指して歩いたわけですから。
道路の左側には先ほど神橋で渡った大谷川が流れています。
虚空蔵尊(こくぞうそん)が祀られています。説明板によると、この虚空蔵尊は寛永17年(1640年)、神橋右岸の磐裂神(虚空蔵尊)を分祀し、鉢石宿の東町六ヶ町の住民が鎮守として祀ったもの…と書かれています。御宮造りの本朱塗り(極彩色)の社殿は栃木県の文化財に指定されているのだそうです。
ここでしばし休憩です。日光街道沿いにあった庚申塔をはじめとした石塔がこの境内に集められて祀られています。
生活道路とは言ってもさすがに日光です。どことなく旧街道のような雰囲気が感じられます。もしかしたら、日光街道全盛期の頃にも地元の人達の裏道として使われていた道路なのかもしれません。
この道の脇には朱塗りの立派な稲荷神社も祀られています。
……(その3)に続きます。
入念なストレッチ体操をして街道ウォーキングのスタートです。
日光街道は江戸時代に徳川幕府(江戸幕府)の政策として整備された「五街道」のひとつで、江戸幕府の主要道路として東海道に次いで整備され、寛永13年(1636年)、江戸日本橋~下野国日光の日光山にある徳川家康を祀る日光東照宮間が全通しました。正式な名称を「日光道中」と言います。もともと江戸の日本橋から宇都宮城(宇都宮宿)までの区間には古道の奥州道が通っており、その北部区間の宇都宮城下から鉢石宿間にも同じく古道の日光街道が通っていたのですが、その宇都宮~日光間の古道の日光街道の東側に新たにその道と並行するように設置された道が、日光街道です。
日光街道の敷設の目的としては歴代徳川将軍の東照大権現(初代将軍家康の霊廟)への参拝、すなわち日光東照宮への参詣であるといわれていますが、もともと五街道の整備を計画したのは徳川家康本人であり、論理的に考えてみると、どうもそういうことではなさそうです。実際、徳川幕府の歴代の将軍家が日光東照宮を参詣する折には、江戸城下の本郷追分から幸手宿までの日光御成道を通るのが通例であり、幸手宿から小山宿まで日光街道(この区間は奥州街道と重複)、小山宿以北は日光街道だけでなく、壬生通りおよび日光例幣使街道を経て日光(今市宿)へ至る経路も併せて用いられました。なので、この日光街道は単に日光東照宮への参詣のために整備されたと言うよりも、江戸から下野国を経て奥州方面に至る物流の動脈路線として計画、整備された道路であることが容易に推察されます。
奥州街道は江戸幕府を支える物流の大動脈で、東海道や中山道以上に力を入れて(お金をかけて)維持・整備する必要があり、そのための名目として日光東照宮への参詣を持ち出したのではないでしょうか。日光街道は江戸・日本橋から日光東照宮(日光坊中)までの間に21の宿場が設けられました。江戸の日本橋を出ると千住宿、草加宿、越ヶ谷宿、粕壁(春日部)宿、杉戸宿、幸手宿、栗橋宿、中田宿、古河宿、野木宿、間々田宿、小山宿、新田宿、小金井宿、石橋宿、雀宮宿を経て宇都宮宿。ここまではほぼ現在の国道4号線のルートと重なり、ここまでの17宿は奥州街道との重複区間でした。宇都宮宿に追分(分岐点)があり、ここで奥州街道と分かれ、ほぼ国道119号線と重なるルートを日光に向けて進むのですが、日光街道単独の宿場としてはそこから先の徳次郎宿、大沢宿、今市宿、鉢石宿の4宿しかありません。なんと21宿中17宿、率でいうと9割に近い区間が奥州街道との重複区間。それでもこの街道を五街道の1つとして日光街道と特別に呼び扱ったのは、 なんらかの意図があると思っています。それは奥州街道の整備。江戸幕府にとって東海道や中山道といった他の街道よりも重要な街道で、江戸幕府自体が直接整備・維持に乗り出す必要があったからだと私は推測しています。その際に日光東照宮への参詣は最適な名目でしたから。
実際、奥州街道は江戸の日本橋を起点として、福島県中通り南部に位置する白河へと至る街道でした。正式な名称は「奥州道中」。白河は奥州三関の一つ白河の関が置かれていたところで、陸奥国(みちのく)の玄関口として知られています。江戸時代初期には主に東北諸藩の参勤交代の交通・連絡に用いられましたが、江戸時代中期には陸奥国諸国及び蝦夷地(北海道)開発のため、江戸時代末期にはロシアからの蝦夷地防衛のために往来量が増加していっています。そもそも徳川家康が京都から離れた東国の江戸に幕府を開いたのも、まだまだ未開の部分が多い、すなわち将来性のある陸奥国諸国及び蝦夷地開発のためだとも推察できることから、この私の推察もあながち間違ってはいないと思っています。
かつて沿道には杉の木が道の両側に植えられていました。特に3代将軍・徳川家光の意を受けて日光東照宮の造営に従事した松平正綱は寛永2年(1625年)から東照宮への参道に杉の植樹を開始。24年の歳月をかけて植樹を続けたといわれています。現在も栃木県日光市の一部区間には「日光の杉並木」としてその杉並木が残されていて、「世界最長の並木道」と言われています。この日はそこを歩くのがメインということなので、楽しみです。
日本国内のリゾートホテルの先駆けとなった日光金谷ホテルです。妻は私と結婚する以前に友人達とこの日光金谷ホテルに泊まって日光東照宮を参拝したのだそうで、「ここ、泊まったことがあるぅ?!」と申しておりました。私はどこに泊まったのだろう。記憶にありません。
神橋(しんきょう)です。この神橋は世界文化遺産「日光の社寺」の玄関とも言える美しい橋です。二荒山(男体山)をご神体としてまつる日光二荒山神社の建造物で、日光山内の入り口にかかる木造朱塗りの美しい橋です。この橋は奈良時代の末に勝道上人が日光山を開く時、大谷川(だいやがわ)の急流に行く手を阻まれ神仏に加護を求めた際、深沙王(じんじゃおう)が現れ2匹の蛇を放ち、その蛇の背から山菅(やますげ)が生えて橋になったという伝説を持つ神聖な橋です。別名、山菅橋や山菅の蛇橋(じゃばし)とも呼ばれています。
現在のような朱塗りの橋になったのは寛永13年(1636年)の東照宮の大造替の時です。明治35年(1902年)にその時の橋は洪水で流されてしまいましたが、明治37年(1904年)に再建され、日本三大奇橋の1つに数えられています。橋の構造は“乳の木”と呼ばれる大木を両岸の土中・岩盤中に埋め込み、両岸から斜め上向きに突き出す。そしてこの両端に橋桁を渡して橋とする特殊な構造となっています。この工法は、現存する国の重要文化財指定の木造橋8基の中でも唯一のものなのだそうです。
その神橋の手前には日光東照宮や日光二荒山神社へ向かう参道が幾つも延びています。ん? ここまで歩いてきた道って昔の道じゃあなかったの?
現代の神橋を渡ります。下を流れている川は大谷川(だいやがわ)。利根川水系の鬼怒川の支流で、中禅寺湖に源を発しています。大谷川及びその支流には、華厳滝をはじめとして裏見滝、霧降の滝、寂光滝、白糸の滝など著名な滝が幾つもあります。中禅寺湖から流出してすぐに華厳滝となりますが、その中禅寺湖と華厳滝の間は海尻川または大尻川と呼ばれています。
神橋のたもとには「橘姫神」が祀られている橘姫神社があります。この神社の祭神である橘姫とは、日本書紀や古事記において日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃とされる弟橘媛(おとたちばなひめ)のことで、対岸の「深沙大王(じんじゃだいおう)」とともに男女一対で神橋の守護神となっています。そしてこの橘姫神は縁結びの神様でもあるそうです。
神橋のたもとには「天海大僧正」の銅像が立っています。
天海大僧正(慈眼大師)は天文5年(1536年)、陸奥国会津大沼郡高田郷の生まれと伝えられている天台宗の僧侶です。幼名は兵太郎、10歳のとき随風といい、55歳のとき天海と改められました。前半生は不明なことが多い謎の人物ですが、幼少より聡明で、14歳のとき宇都宮の粉川寺の皇舜僧正のもとで学び、更に比叡山延暦寺、三井寺、奈良の興福寺、足利学校、上野の善昌寺などで天台、法相、三論、禅、日本の古文学、儒教等様々なことを学びました。数々の寺院の住職となり、その間に武田信玄や後陽成天皇などに法を説き、慶長2年(1607年)、天海は比叡山延暦寺の南光坊に移って比叡山探題執行を命じられ、織田信長によって焼き討ちに遭った延暦寺再興にも尽力しました。そのため「南光坊天海」と呼ばれています。
徳川家康と初めて接見したのは慶長5年(1610年)、天海が75歳の時とされています。この時、天海は駿府城にて徳川家康の前で論議を開きました。この時、家康は68歳でしたが、天海に深く感銘し、「もっと早く天海に逢いたかった」と言うほどだったそうです。慶長18年(1613年)、天海78歳の時、日光山の住職となりました。出会うのが高齢になってからのことだったので、天海が生前、家康に仕えたのは僅かに7年間と短かったのですが、のちに二代将軍秀忠、三代将軍家光にも仕え、これら三代の将軍の家庭教師役・政治顧問・相談役等を務め、“黒衣の宰相”と呼ばれて徳川幕府のために尽力しました。 元和2年(1616年)、家康が75歳で亡くなると、天海は以前より残された遺言によって日光東照宮の造営を差配しました。その後は江戸の寛永寺と日光山の住職として活躍し、寛永20年(1643年)、東叡山において108歳で亡くなったと伝えられています。メチャメチャ長生きです。天海によって日光山は空前の繁栄をし、その功績を讃え、天海は「日光中興の祖」と呼ばれています。
中禅寺湖に向かう“いろは坂”を登ると「明智平」と呼ばれる素晴らしい景観の場所があります。名付けたのは天海大僧正だと言われており、このことから天海は明智光秀であったという歴史ミステリーのような説があります。その説によると、明智光秀は本能寺で織田信長を討ち、直後に中国大返しにより戻ってきた羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れ、一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも、致命傷を受けて自害したともされているのですが、最期が不明確なことから、襲われたのは実は影武者で、明智光秀は天台宗総本山の比叡山に身を寄せたとされています。比叡山延暦寺は織田信長に焼き討ちされたので、敵を討った明智光秀を匿い優遇し、出家した光秀を大僧正にまでならせたとされています。で、光秀は、その後、天海として家康、秀忠、家光という徳川三代の将軍に仕え、徳川幕府のために尽力したのですが、その天海大僧正が昔の自分の名をどこかに残しておきたくて、日光で一番眺めのよい場所を選んで、そこを「明智平」と命名したというのです。あくまでも一つの仮説に過ぎないのですが、なにが真実なのかは誰も分かっていないので、「邪馬台国は四国にあった」などという大胆すぎるくらいに大胆な仮説を唱えている私としては、こういうのもありかな…と思ってしまいます。なにより、実に浪漫があって、面白い!!
さらに神橋のたもとにはもう一体、刀を差して日光山を静かに見つめる一人の男の銅像が建てられています。その男の名は、板垣退助。板垣退助と言うと、明治維新後の新政府において内務大臣等の要職を歴任し、明治6年(1873年)、征韓論で敗れて西郷隆盛らと共に下野した後は自由民権運動に身を投じ、明治15年(1882年)、岐阜で遊説中に暴漢に襲われ負傷した際に発した「板垣死すとも自由は死せず」で有名になるなど、どうしても自由民権運動を推進した政治家というイメージが付きまといますが、彼の本質はむしろ軍事的な才能のほうにあったと言えます。
板垣退助は四国の土佐藩士でした。板垣退助が属した土佐藩は、幕末の最後まで非常に複雑な立場にいた藩でした。前土佐藩主・山内容堂は、幕府権力が衰退していく中でも、最後まで幕府擁護論を展開し、慶応4年(1868年)に起こった「鳥羽・伏見の戦い」においても、「この度の戦は、薩長と会津・桑名の私闘である」と藩内に宣言し、土佐藩兵に対しても、決して戦闘を行なってはならないと発砲禁止命令を出したほどです。しかしながら、土佐藩内の一部の倒幕派はその容堂の命令を無視し、独断で薩長の連合軍に加わり、その結果「鳥羽伏見の戦い」は、薩摩・長州・土佐“三藩の連合軍(官軍)”側の勝利に終わったことになりました。
鳥羽伏見の戦いが勃発した当時、板垣退助(当時は乾退助)は郷里の土佐にいたのですが、京都から鳥羽伏見開戦の報が土佐に届くと、板垣退助は土佐藩迅衝隊の大隊司令に任命され、土佐藩兵を率いて上京することになりました。鳥羽伏見の戦いの勝利で形勢が薩長有利となった今、土佐藩として、いつまでも幕府を擁護する立場を取ることは藩の自滅を招きかねないとの懸念から、急遽、薩長側として兵隊を京に送る必要が生じたためです。その司令官に板垣退助が任命されたのは、彼は以前、藩主山内容堂に対しても直接倒幕論を建白するなど、藩内の倒幕派の中心人物であり、藩主容堂の信頼も非常に厚い人物であったからでした。
土佐藩迅衝隊を率いて京都に入った板垣退助は、東山道先鋒総督府参謀を拝命し、一路江戸へ向かって進撃を開始しました。途中甲州の勝沼で、元新撰組の近藤勇率いる甲陽鎮撫隊を打ち破るなどの活躍を見せた板垣退助は、その後、旧幕府の歩兵奉行を務めた大鳥圭介率いる旧幕府伝習隊と相対することになりました。大鳥圭介率いる旧幕府伝習隊は、当時、関東地方を中心にゲリラ戦を展開しており、新政府は板垣退助に対し、その討伐を命じたのです。
板垣退助は土佐藩兵を率いて江戸を出発すると、壬生(現在の栃木県下都賀郡壬生町)において、大鳥圭介らが日光東照宮のある日光山を本拠として立て籠もっているとの情報を得ました。日光東照宮と言えば、江戸幕府を樹立した徳川家康の祖廟を祀り、文化財的にも非常に貴重な建築物です。板垣退助はそのような貴重な建物がこれから戦火によって焼失してしまうことを憂い、現在の栃木県鹿沼市において日光山の末寺を探させ、そこの僧侶を呼び出して次のように伝えました。
「日光にはただいま危機が迫っている。敵が日光に立て籠る限り、我々はこれを攻めなければならないが、そうなれば焼討ちにもかけねばなるまい。東照宮を尊敬するのならばいさぎよく撃って出て、今市(現在の栃木県今市市)で勝敗を決すべきではないか。あくまで日光に拠って戦うというのは東照宮(家康公)への不敬にあたるし、建築も兵火からまぬがれない。おぬし、この理を説いて徳川の将を説得せよ」
板垣退助は大鳥圭介ら旧幕府軍を日光から下山させ、貴重な建築物である日光東照宮を焼失から防ごうと考えたのです。この板垣退助の言葉に動かされた日光山の末寺の僧侶は、日光の本山へと向かい、そして大鳥圭介ら旧幕府軍の将兵達は板垣退助の発したこの言葉に心動かされ、最終的に日光山を下山することを承諾しました。
旧幕府軍が去り、後に日光東照宮に入った板垣は、兵士達に乱暴狼藉を働くことを厳しく禁止し、自らは旧来の作法にのっとって、神廟に拝礼の儀式を行なったと言われています。その板垣退助のとった立派な態度は、日光東照宮の僧侶達を感激させたと伝えられています。
日光東照宮が戦災を免れたのも、板垣退助という人物が居たからこそであったと言え、いつしか板垣は、「日光の恩人」と称されるようになったのだそうです。
昭和4年、板垣退助のこのような遺徳を讃えるため、日光山の山裾のこの神橋のたもとに、腕を組んで静かに日光を見つめる板垣退助の銅像が建てられました。銅像自体は第二次世界大戦の金属供出で一度撤去されてしまいますが、昭和42年、日光東照宮を救った板垣退助の業績を永久に残すべく、関係者の手によって再び銅像が再建されました。かつて日光東照宮を救った時のように、今もなお板垣退助は、静かに日光山を見守り続けているようです。
ここからが「鉢石宿(はついしじゅく)」です。鉢石宿は、日光街道の21番目の宿場で、日光街道のゴールである日光東照宮の門前町として大いに栄えたところです。天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によると、鉢石宿の本陣は2軒設けられ、旅籠が19軒、宿内の家数は223軒、人口は985人であったのだそうです。鉢石という地名の由来は文字どおり「鉢を伏せたような形状の石」で、大谷川の岸辺に直径2メートルほどの“鉢石”が今もあるのだそうです。日光山開祖である勝道上人が托鉢の途中、大谷川岸辺のこの石に座って日光山を仰いだと伝わっていて、日光開山以来、旅人の道標となっていました。
神橋のたもとには「日光のおいしい水」なるものが湧いています。これは『磐裂霊水(いわさくれいすい)』と呼ばれています。1200年以上昔、「日光開山の祖」と呼ばれている勝道上人がこの地に清水を発見し、以来、修験者が神仏に備えた霊水と伝えられています。この水は男体山系の湧き水で、日本で最も美味しい水であるとの定評があります…と説明板に書かれています。私も置いてある柄杓を使って飲んでみたのですが、日本一かどうかは分かりませんが、ちょっと冷たいので、真夏の太陽に照らされたこのような暑い日には確かに美味しく感じられます。
日光開山の祖として忘れてならないのがこの説明板にも登場する勝道上人(しょうどうしょうにん)です。
下野国が生んだ名僧、勝道上人は奈良時代の天平7年(735年)、現在の栃木県真岡市で生まれたと伝えられています。父は下野国府の役人、若田高藤で、母は国府に神主としてつとめていた吉田主典の娘、明寿と言われています。母の実家で誕生した上人は、幼名を藤糸丸(ふじいとまる)といいました。この誕生の地には後に仏生寺(ぶっしょうじ)という寺院が建てられています。仏生寺は、八溝山地(やみぞさんち)の西斜面にあたる錫杖ヶ峰(しゃくじょうがみね)の麓にあり、山門の両脇には、樹齢約700年の大ケヤキが聳えているのだそうです。
勝道上人は、幼い頃から神童と呼ばれ、若い頃には、現在の栃木市北西にある出流山(いずるさん)の岩窟に入り、3年間、仏の道を修行しました。その後、さらに3年間、山深く分け入って苦行を重ねた後、下野薬師寺に行き、有名な鑑真和上(がんじんわじょう)の弟子に仏教の教えを受け、僧の資格を授かり、勝道と名乗りました。
31歳の時、勝道上人は、下野薬師寺を出て、大剣ヶ峰(だいけんがみね:横根山)に登り、そこでの1年間の修行の後、北方に聳える二荒山(ふたらさん:男体山)を目指し、まずは精進岳(しょうじんだけ)に辿り着きました。一度下山して大谷川(だいやがわ)を渡り、対岸の二荒山に行こうとしましたが、谷深く流れの激しいこの川をなかなか渡ることができませんでした。この時、神仏に祈り、神の助けで川を渡ったという伝説があります。その伝説の橋が山菅橋(やますげばし)で、現在の神橋(しんきょう)であることは前述のとおりです。
大谷川を渡った上人は、そこに、四本竜寺(しほんりゅうじ)を建てました。その寺が、日光山で最も古い寺である輪王寺(りんのうじ)の起こりであると言われています。その後、上人は山の霊の力を身に付け、自分の信仰を完全なものにしようと考え、僧としてこれまで誰も登ったことのない二荒山(男体山)の登頂を目指しましたが、今度は原始林に阻まれ、失敗に終わりました。
延暦元年(782年)、勝道上人は、3度目の登頂を目指しました。神々に祈りながら、決死の覚悟で山頂を目指した勝道上人は、とうとう男体山の頂上に登りつくことができたと伝えられています。上人は、その後、中禅寺湖のほとりに、神宮寺を建てて、自作の「立木観音(たちきかんのん)」を本尊に祀ったり、二荒山神社を建てたりして、今日まで続く聖地・日光の基礎を作りました。勝道上人は、弘仁8年(817年)に82歳で亡くなったと伝えられていますが、今でも「日光開山の祖」として、人々に尊ばれています。
さらにこの霊水の名称にもなっている「磐裂(いわさく)」ですが、これは下野国(現在の栃木県)の土着の神と言われる磐裂神(いわさくのかみ)と根裂神(ねさくのかみ)のうちの磐裂神に由来した名称です。勝道上人の日光登山の成功は、この盤裂神の助けによるものとされていて、現在、栃木県の日光市(今市を含む)や鹿沼市周辺には盤裂神・根裂神を祭神とし、本地仏を虚空蔵菩薩とする複数の磐裂神社、根裂神社、磐裂根裂神社があるのだそうです。
『磐裂霊水』の傍らに鉢石宿から日光東照宮にかけての案内表示が出ています。ふむふむ、なるほどぉ~。
ここから鉢石宿内を歩いていくのかな…と思ったのですが、どうもそうではなさそうです。日光街道そのものではなく、日光街道から1本北側に入った並行する生活道路のような道路を歩いていきます。
この「五街道ダイジェストウォーク」、歩く区間も見どころが多い区間のダイジェストということに加え、その区間内でも旧街道のところは見どころの部分だけを歩くようです。歩き始めて、初めて気が付いたのですが、どうもこの旅行会社のウォーキング企画は歩くこと(ウォーキング)そのものを目的としているようなところがあり、私がいつも利用している某旅行会社の「中山道六十九次・街道歩き」とは、そもそもの目的、と言うか企画のコンセプトが異なっているようです。
「中山道六十九次・街道歩き」は歴史探訪の色彩が強く、時には廃道かと見まがうようなワイルドな道を通ったりして旧街道の跡をひたすら忠実に辿り、各宿場の町並みをはじめ途中の史跡や遺構などで説明を聞いて、旧街道の全盛期(人や物が盛んに行き来していた当時)に思いを馳せたり、地形からなぜここを旧街道が通っていたのかを推察してみたりと、どちらかと言えば“文化サークル系”の企画と言えるのですが、この「五街道ダイジェストウォーク」のほうはと言えばそういうことはちょっと軽視していて、とにかく歩くことが主体の“体育会系”の企画のようなんです。どうも旅行会社によって企画のコンセプトが全く異なるようです。
今回参加している皆さんもこの旅行会社のウォーキングツアーの常連さんが多く、このコンセプトを十分理解しているようで、まったく文句は出ないようです。その証拠と言いますか、皆さん、歩く速度が異様に速いのです。私も「中山道六十九次・街道歩き」に毎月参加し、歩くことには慣れているつもりでいたのですが、このペースの違いに戸惑うほどでした。しかも、途中、立ち止まることなく、ただひたすら歩きます。旧街道そのものではなく、1本入った並行する生活道路を通るのもそのためのようです。旧街道は今でも主要道路であったりするので、クルマの通行量も多く、交差点での信号待ちや横断歩道を渡るためところどころで立ち止まらないといけませんからね。なるほど、そういうことか…と気づきました。生活道路を歩くので、当然のこととして途中で立ち止まってなにかの説明を受けることもありません。
いつもの街道歩きの習性で、道の両側になにか歴史を感じさせるものがないかキョロキョロしながら歩いていると、気がつけば列の最後尾。立ち止まって写真を撮ったりしようものなら、その後、走って追いつかないといけないほどです。その都度、妻からは「パパ、なにやってんの! おいてかれるよ!」と叱られる始末。皆さん、とにかく速いのです。でもまぁ~、こういうのもありかな…って思います。昔の人は信号機のたびに立ち止まることもなく、また、途中で史跡の説明を受けることもなく、ただひたすら目的地を目指して歩いたわけですから。
道路の左側には先ほど神橋で渡った大谷川が流れています。
虚空蔵尊(こくぞうそん)が祀られています。説明板によると、この虚空蔵尊は寛永17年(1640年)、神橋右岸の磐裂神(虚空蔵尊)を分祀し、鉢石宿の東町六ヶ町の住民が鎮守として祀ったもの…と書かれています。御宮造りの本朱塗り(極彩色)の社殿は栃木県の文化財に指定されているのだそうです。
ここでしばし休憩です。日光街道沿いにあった庚申塔をはじめとした石塔がこの境内に集められて祀られています。
生活道路とは言ってもさすがに日光です。どことなく旧街道のような雰囲気が感じられます。もしかしたら、日光街道全盛期の頃にも地元の人達の裏道として使われていた道路なのかもしれません。
この道の脇には朱塗りの立派な稲荷神社も祀られています。
……(その3)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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