2017/10/25
日光街道ダイジェストウォーク【今市宿→大沢宿】(その3)
大室ダムの公園でしばし休憩をとった後、再び旧日光街道のところまで戻り、日光街道ダイジェストウォークの再開です。日光連山の男体山(2,484メートル)と大真名子山(2,375メートル)が間近に見えます。ちょっと雲がかかっているのが残念です。
旧・森友村から約2km。杉並木の途切れた街道(国道119号線)の両側に店や民家が軒を連ねているところがあります。ここも立場茶屋が置かれていた旧・水無村です。大室ダムの公園から旧・水無村の集落の江戸方に直接出てきました。
“水無”の地名は現在も日光市の一地域となって受け継がれており、その地名の由来が気になるところです。聞くと、「水利が悪い畑地であったから」であるとか、「清兵衛という名主宅に古木の梨の樹があり、水分の多く含んだ甘い梨がなったことから”水梨”と呼ばれ村名となった」という2つの説があるようです。しかし、水利の悪い場所でそんな甘い水梨ができるとも思えず、また、“水梨”をわざわざ“水無”と書き変えるとも思えないので、両説の間をとって、水利が悪いように見える土地だが、実は豊富な地下水があって肥沃な土地だったということではないでしょうか。
旧・水無村の江戸方入口にある延命地蔵尊です。旧・水無村から先は杉並木の中の道は自動車通行禁止になっているので、杉並木の中を歩きます。
旧・水無村から大沢宿にかけての日光街道は歩道が狭く、木々の間から日光連山を眺めながら杉並木の中を歩きます。
大沢宿に向かって旧・水無村から杉並木に入ってすぐのところに江戸の日本橋から数えて32里目(約28km)の一里塚、「大沢一里塚(水無一里塚)」があった筈なのですが、見逃してしまいました。この「大沢一里塚(水無一里塚)」は杉並木の外側に両塚が残っているのだそうです。
また、この「大沢一里塚(水無一里塚)」から東に少し入ったところに将軍専用の休息所「大沢御殿」がありました。この御殿は第3代将軍徳川家光の時に大沢の稲荷山を切り崩して造営され、寛永4年(1627年)から寛永17年(1640年)にかけて将軍社参の際に、装束を改める衣帯所として利用されました。しかし、次の第4代将軍徳川家綱の時にその大沢御殿に代わって竜蔵寺が使用されるようになり、御役御免となり、その後は無用の長物となったようで、御殿は朽ち果てて自然消滅しました。現在は御殿の痕跡らしき土塁が残っていて、「御殿開田之碑」が立っているだけだそうです。石碑が立っているだけだそうなので、今回は立ち寄るのはパスしちゃいました。
さらに杉並木の中を大沢宿目指して歩きます。旧・水無村から先は杉並木の中の道は自動車通行禁止になっていると書きましたが、この道が意外と苦戦しました。鬱蒼と茂る杉並木のおかげで、路面は湿っていて、しかもところどころで苔むしています。なので、やたらと滑ります。極力路面が乾いているところを選んで歩いていくのですが、それでも滑る滑る。写真を撮影したりして隊列から遅れると、その遅れを取り返すために歩く速度を少し上げたいのですが、そうすると滑って危険な感じになるので、遅れはだんだん大きくなってしまいます。まぁ~、仕方ないですね。
今は自動車通行禁止になっているのですが、実はこの歩行者専用道路が国道119号線で、現在、クルマはこの杉並木の横を通るバイパスを通行します。
同じような写真ばかりが続きますが、ホント見事な杉並木です。旧街道の雰囲気が色濃く残る緩やかなカーブが渋い!…です。
写真を撮るために一団を大きく遅れてしまったのは私だけでなく、もうお一人いらっしゃって、その方と2人並んで歩きました。お話しをお聞きすると、その方はかなりの筋金入りの街道歩きマニアのようで、既に東海道と中山道を歩き終えて、現在は善光寺街道を歩いていらっしゃるのだそうです。善光寺街道は 中山道の 洗馬宿(せばじゅく:現長野県塩尻市洗馬)にある洗馬追分から北国街道の篠ノ井追分宿(しののいおいわけ:現長野市篠ノ井)を通り善光寺までの約20里(約80km)の旧街道です。
「私は街道歩き初心者で、昨年から中山道を歩いています。現在は碓氷峠を越えて佐久平を長久保宿まで来たところで、9月にはいよいよ和田峠を越えて下諏訪宿に向かう予定です」と申し上げたところ、中山道ネタでしばし盛り上がりました。和田峠を越えて、さらに塩尻峠を越えて木曽路に入ると、沿道の雰囲気がさらに変わって面白くなりますよ…と言っていただいたので、期待感がこれまで以上に大きく膨らみました。聞くと、この方は旧街道の「歩きつぶし」のようなことをなさっていて、その一環で今回の日光街道ダイジェストウォークに参加なさっているのだそうです。これでまた1つ、日本地図の上に“歩いた”という色が塗られるのでしょうね。
鉄道マニアの「乗り鉄」のジャンルの1つに、日本列島に張り巡らされた全鉄道路線を“乗りつぶす”ことを目標とした「乗りつぶしマニア」という非常にマニアックな人達がいらっしゃいますが、この方のような主要旧街道の「歩きつぶし」を目標として歩いておられる街道歩きマニアの方もいらっしゃるのですね。考えてみると、鉄道マニアと街道歩きマニアは趣味としては非常に似ているところがあります。そもそも旧街道歩きって鉄道マニアのジャンルで言うと「廃線跡マニア」そのもののようなところがありますからね。
蒸気機関を利用する鉄道という交通手段が初めてイギリスで実用化されたのは1825年のこと。そしてそれから47年後の明治5年(1872年)に、新橋駅~横浜駅間で日本最初の鉄道が開業しました。その後瞬く間に日本国中に鉄道網が張り巡らされたのですが、それまでは街道が国内の陸上交通網の最重要インフラで、街道を自らの足で歩いたり、馬や牛に乗ったり曳かれてしながら旅をしたり物資を輸送したりするしかありませんでした。そういう意味では“鉄道”は“街道”の一種であるともいえ、趣味として共通する部分が大きいのは当然ということもできようかと思います。また、“鉄道”も“街道”も“道”という字が付いていますので、趣味としての鉄道も街道も“茶道”や“華道”、“柔道”、“剣道”等と同様に様々な流派があったりして、実に奥が深いものということが言えます。
ちなみに、交通機関ということで言えば、自動車がありますが、自動車が発明されて、街道そのものがそれまでとガラッと姿を変えることになるのは、鉄道網が整備されるよりも後のことです。ドイツ人のニコラウス・オットーがガソリンで動作する内燃機関(ガソリンエンジン)を開発したのが1876年のことで、1885年にはドイツ人のゴットリープ・ダイムラーがこれを改良して4ストロークエンジンを開発し、木製の二輪車にエンジンを載せて試走に成功。翌1886年には馬車に搭載して四輪車を開発しました。また同じ1886年には同じくドイツ人のカール・ベンツがダイムラーとは別にガソリンエンジンを改良して、車体から設計した3輪自動車を開発。実際に販売を開始しました。このように、現在、主流となっているガソリン自動車の本格的な歴史は1885年~1886年に始まったと言えます。すなわち、ガソリン自動車は鉄道が登場するよりももっと後に登場したもので、その普及により街道(道路)は自動車が走行することを主たる目的とした形状のものへと瞬く間に姿を変えていきました。1885年~1886年と言えば、今から僅か130年ほど前のことです。すなわち、街道が現在私達が見ているような形になったのはここ100年ちょっとのことなんですね。100年なんて人類の長い歴史を考えるとほんの短い期間です。
自動車通行禁止の区間はここまで(振り返って撮影しました)。ここからはクルマも通る道になるのですが、クルマはほとんど通りません。
今市宿~大沢宿間の杉並木もまもなく終了。「特別保護区域」から「保護区域」、「保護区域」から「普通区域」…と、変わっていきます。
杉並木が途切れるこのあたりに大沢宿の日光方がありました。下の写真のうち、上の2枚は江戸方向を写した写真、下の1枚は振り返って日光方向を写した写真です。歩道橋の向こう側に杉並木が見え、そこを歩いてきました。
二手に分かれた国道119号線が大沢交差点の手前で合流します。このあたりからが大沢宿でした。
駿河国久能山に葬られていた徳川家康の遺骸が日光へ改葬された元和3年(1617年)、元々あった大沢村の集落に宿場町の体裁を整えさせ、江戸の日本橋から数えて19番目の宿場として大沢宿は誕生しました。天保14年(1843年)当時の記録によると町並み4町4間(約444メートル)、人口248人、家数43軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒とあり、隣の徳次郎宿と同様、宿場規模に比べて旅籠の数がやたらと多いのが特徴です。旅籠には飯盛女も数多く置かれて、大いに繁盛しました。大沢宿は度重なる大火に遭い、現在は往時の面影をほとんど残していません。
なお、“大沢”の地名の由来は、鎌倉時代に源頼朝がこの地を家来に恩沢(おんたく)として与え、開墾のうえ居住させたのが始まりとのことで、当初は恩沢(おんたく)村と呼ばれていたのが、いつの頃からか“おんさわ”村と呼ばれるようになり、さらに、「大沢(おおさわ)村」と転訛したということのようです。
大沢宿はこのあたりが江戸方の出入り口で、再び日光街道は次の徳次郎宿目指して杉並木の中に入っていきます。日光街道の杉並木は次の徳次郎宿までの途中までさらに延びているのだそうです。日光街道の杉並木の区間は鉢石宿~大沢宿間で総延長16.52km、このほかに日光例幣使街道の今市宿~小倉宿間の13.17km、会津西街道の今市宿~大桑宿間の5.72km。合わせて約37km弱あります。いずれも日光二荒山神社の領内を通る道筋で、それ以外の杉並木は後々延長された杉並木です。ここから少し進んだところに「杉並木寄進碑」が立っています。この「杉並木寄進碑」は松平正綱により立てられた碑で、杉並木道の完成を記念して建てられたものです。
この日の街道歩きはここまで。ここから日光街道から外れて、日光宇都宮道路の大沢IC近くにあるコンビニの駐車場まで歩き、そこで待っている観光バスに乗って、さいたま新都心駅まで戻りました。
この日は22,049歩、距離にして15.6km歩きました。距離的には街道歩きとしては別段大したこともなく、標高が東京都心やさいたま市などよりも高いところなので、最高気温は30℃を越えてはいないのですが、距離以上に疲れました。日陰になった杉並木の中を歩いただけでこの疲れかたです。しかも、油断したのか、軽い熱中症にかかりかけました。これが真夏の直射日光が照りつける炎天下の中での歩きだったら…と思うとゾッとします。江戸幕府が旧街道を並木道にすることを奨励した意味がよぉ~く分かる今回の街道歩きでした。
今回の日光街道ダイジェストウォークで歩いた「日光街道の杉並木」は、現在日本で唯一、特別史跡と特別天然記念物の二重の指定を受け、平成3年(1991年)には「世界一長い並木道」としてギネスブックに認定、さらには平成11年(1999年)12月には二荒山神社、日光東照宮などとともに「日光の社寺」として世界遺産の登録を受けたという素晴らしい旧街道で、街道歩きに興味を持たれる人だけでなく、1人でも多くの皆さんに是非一度歩いてみてはいかがですか…とお薦めしたくなるところではあるのですが、難点は周囲の景色があまりに単調であること。ただひたすら杉並木の中を歩くだけなので、圧倒されるのは1回目だけで、2回目となるとこの風景にも慣れてきて、正直ちょっと物足りなさも感じてしまいました。さらに、日光街道は江戸時代からの約400年ほどの歴史しかなく、しかも戊辰戦争でその歴史的遺物の大部分が破壊されているので往時を偲ばせるものが杉並木以外ほとんど残されていないという欠点もあります。私のように昔の旅人も見たであろう周囲の風景を楽しみたい、とか、往時の宿場の雰囲気を偲んでみたいという方にはちょっと物足りなさを感じるかもしれません。繰り返しになりますが、それでも、是非一度歩いてみてはいかが…とお薦めしたくなる旧街道です。日光東照宮だけが日光の魅力ではありません。
日光街道ダイジェストウォークはこの2回で終了です。来月からは再び「中山道六十九次・街道歩き」に戻ります。
【追記】
帰りには今回も東北自動車道の羽生(はにゅう)パーキングエリア(PA)で休憩をとりました。ここ、旧街道歩きの帰りには鉄板(お約束)の場所ですよね。日光の今市宿などと比べ標高が低いので、バスから降りた瞬間、もぁ~っと暑い空気が身体にまとわりついて、暑かったです。繰り返しになりますが、この日の日中の最高気温は、群馬県の伊勢崎市と館林市でいずれも36.7℃、東京都練馬区と埼玉県熊谷市でいずれも36.4℃、さいたま市で36.2℃、水戸市で35.7℃、日光からほど近い栃木県佐野市で35.3℃、千葉市で35.1℃など各地で猛暑日になりました。また、東京の都心と横浜市も34.8℃と厳しい暑さになりました。こりゃあハンパじゃあないです、はい。
――――――――〔完結〕――――――――
旧・森友村から約2km。杉並木の途切れた街道(国道119号線)の両側に店や民家が軒を連ねているところがあります。ここも立場茶屋が置かれていた旧・水無村です。大室ダムの公園から旧・水無村の集落の江戸方に直接出てきました。
“水無”の地名は現在も日光市の一地域となって受け継がれており、その地名の由来が気になるところです。聞くと、「水利が悪い畑地であったから」であるとか、「清兵衛という名主宅に古木の梨の樹があり、水分の多く含んだ甘い梨がなったことから”水梨”と呼ばれ村名となった」という2つの説があるようです。しかし、水利の悪い場所でそんな甘い水梨ができるとも思えず、また、“水梨”をわざわざ“水無”と書き変えるとも思えないので、両説の間をとって、水利が悪いように見える土地だが、実は豊富な地下水があって肥沃な土地だったということではないでしょうか。
旧・水無村の江戸方入口にある延命地蔵尊です。旧・水無村から先は杉並木の中の道は自動車通行禁止になっているので、杉並木の中を歩きます。
旧・水無村から大沢宿にかけての日光街道は歩道が狭く、木々の間から日光連山を眺めながら杉並木の中を歩きます。
大沢宿に向かって旧・水無村から杉並木に入ってすぐのところに江戸の日本橋から数えて32里目(約28km)の一里塚、「大沢一里塚(水無一里塚)」があった筈なのですが、見逃してしまいました。この「大沢一里塚(水無一里塚)」は杉並木の外側に両塚が残っているのだそうです。
また、この「大沢一里塚(水無一里塚)」から東に少し入ったところに将軍専用の休息所「大沢御殿」がありました。この御殿は第3代将軍徳川家光の時に大沢の稲荷山を切り崩して造営され、寛永4年(1627年)から寛永17年(1640年)にかけて将軍社参の際に、装束を改める衣帯所として利用されました。しかし、次の第4代将軍徳川家綱の時にその大沢御殿に代わって竜蔵寺が使用されるようになり、御役御免となり、その後は無用の長物となったようで、御殿は朽ち果てて自然消滅しました。現在は御殿の痕跡らしき土塁が残っていて、「御殿開田之碑」が立っているだけだそうです。石碑が立っているだけだそうなので、今回は立ち寄るのはパスしちゃいました。
さらに杉並木の中を大沢宿目指して歩きます。旧・水無村から先は杉並木の中の道は自動車通行禁止になっていると書きましたが、この道が意外と苦戦しました。鬱蒼と茂る杉並木のおかげで、路面は湿っていて、しかもところどころで苔むしています。なので、やたらと滑ります。極力路面が乾いているところを選んで歩いていくのですが、それでも滑る滑る。写真を撮影したりして隊列から遅れると、その遅れを取り返すために歩く速度を少し上げたいのですが、そうすると滑って危険な感じになるので、遅れはだんだん大きくなってしまいます。まぁ~、仕方ないですね。
今は自動車通行禁止になっているのですが、実はこの歩行者専用道路が国道119号線で、現在、クルマはこの杉並木の横を通るバイパスを通行します。
同じような写真ばかりが続きますが、ホント見事な杉並木です。旧街道の雰囲気が色濃く残る緩やかなカーブが渋い!…です。
写真を撮るために一団を大きく遅れてしまったのは私だけでなく、もうお一人いらっしゃって、その方と2人並んで歩きました。お話しをお聞きすると、その方はかなりの筋金入りの街道歩きマニアのようで、既に東海道と中山道を歩き終えて、現在は善光寺街道を歩いていらっしゃるのだそうです。善光寺街道は 中山道の 洗馬宿(せばじゅく:現長野県塩尻市洗馬)にある洗馬追分から北国街道の篠ノ井追分宿(しののいおいわけ:現長野市篠ノ井)を通り善光寺までの約20里(約80km)の旧街道です。
「私は街道歩き初心者で、昨年から中山道を歩いています。現在は碓氷峠を越えて佐久平を長久保宿まで来たところで、9月にはいよいよ和田峠を越えて下諏訪宿に向かう予定です」と申し上げたところ、中山道ネタでしばし盛り上がりました。和田峠を越えて、さらに塩尻峠を越えて木曽路に入ると、沿道の雰囲気がさらに変わって面白くなりますよ…と言っていただいたので、期待感がこれまで以上に大きく膨らみました。聞くと、この方は旧街道の「歩きつぶし」のようなことをなさっていて、その一環で今回の日光街道ダイジェストウォークに参加なさっているのだそうです。これでまた1つ、日本地図の上に“歩いた”という色が塗られるのでしょうね。
鉄道マニアの「乗り鉄」のジャンルの1つに、日本列島に張り巡らされた全鉄道路線を“乗りつぶす”ことを目標とした「乗りつぶしマニア」という非常にマニアックな人達がいらっしゃいますが、この方のような主要旧街道の「歩きつぶし」を目標として歩いておられる街道歩きマニアの方もいらっしゃるのですね。考えてみると、鉄道マニアと街道歩きマニアは趣味としては非常に似ているところがあります。そもそも旧街道歩きって鉄道マニアのジャンルで言うと「廃線跡マニア」そのもののようなところがありますからね。
蒸気機関を利用する鉄道という交通手段が初めてイギリスで実用化されたのは1825年のこと。そしてそれから47年後の明治5年(1872年)に、新橋駅~横浜駅間で日本最初の鉄道が開業しました。その後瞬く間に日本国中に鉄道網が張り巡らされたのですが、それまでは街道が国内の陸上交通網の最重要インフラで、街道を自らの足で歩いたり、馬や牛に乗ったり曳かれてしながら旅をしたり物資を輸送したりするしかありませんでした。そういう意味では“鉄道”は“街道”の一種であるともいえ、趣味として共通する部分が大きいのは当然ということもできようかと思います。また、“鉄道”も“街道”も“道”という字が付いていますので、趣味としての鉄道も街道も“茶道”や“華道”、“柔道”、“剣道”等と同様に様々な流派があったりして、実に奥が深いものということが言えます。
ちなみに、交通機関ということで言えば、自動車がありますが、自動車が発明されて、街道そのものがそれまでとガラッと姿を変えることになるのは、鉄道網が整備されるよりも後のことです。ドイツ人のニコラウス・オットーがガソリンで動作する内燃機関(ガソリンエンジン)を開発したのが1876年のことで、1885年にはドイツ人のゴットリープ・ダイムラーがこれを改良して4ストロークエンジンを開発し、木製の二輪車にエンジンを載せて試走に成功。翌1886年には馬車に搭載して四輪車を開発しました。また同じ1886年には同じくドイツ人のカール・ベンツがダイムラーとは別にガソリンエンジンを改良して、車体から設計した3輪自動車を開発。実際に販売を開始しました。このように、現在、主流となっているガソリン自動車の本格的な歴史は1885年~1886年に始まったと言えます。すなわち、ガソリン自動車は鉄道が登場するよりももっと後に登場したもので、その普及により街道(道路)は自動車が走行することを主たる目的とした形状のものへと瞬く間に姿を変えていきました。1885年~1886年と言えば、今から僅か130年ほど前のことです。すなわち、街道が現在私達が見ているような形になったのはここ100年ちょっとのことなんですね。100年なんて人類の長い歴史を考えるとほんの短い期間です。
自動車通行禁止の区間はここまで(振り返って撮影しました)。ここからはクルマも通る道になるのですが、クルマはほとんど通りません。
今市宿~大沢宿間の杉並木もまもなく終了。「特別保護区域」から「保護区域」、「保護区域」から「普通区域」…と、変わっていきます。
杉並木が途切れるこのあたりに大沢宿の日光方がありました。下の写真のうち、上の2枚は江戸方向を写した写真、下の1枚は振り返って日光方向を写した写真です。歩道橋の向こう側に杉並木が見え、そこを歩いてきました。
二手に分かれた国道119号線が大沢交差点の手前で合流します。このあたりからが大沢宿でした。
駿河国久能山に葬られていた徳川家康の遺骸が日光へ改葬された元和3年(1617年)、元々あった大沢村の集落に宿場町の体裁を整えさせ、江戸の日本橋から数えて19番目の宿場として大沢宿は誕生しました。天保14年(1843年)当時の記録によると町並み4町4間(約444メートル)、人口248人、家数43軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒とあり、隣の徳次郎宿と同様、宿場規模に比べて旅籠の数がやたらと多いのが特徴です。旅籠には飯盛女も数多く置かれて、大いに繁盛しました。大沢宿は度重なる大火に遭い、現在は往時の面影をほとんど残していません。
なお、“大沢”の地名の由来は、鎌倉時代に源頼朝がこの地を家来に恩沢(おんたく)として与え、開墾のうえ居住させたのが始まりとのことで、当初は恩沢(おんたく)村と呼ばれていたのが、いつの頃からか“おんさわ”村と呼ばれるようになり、さらに、「大沢(おおさわ)村」と転訛したということのようです。
大沢宿はこのあたりが江戸方の出入り口で、再び日光街道は次の徳次郎宿目指して杉並木の中に入っていきます。日光街道の杉並木は次の徳次郎宿までの途中までさらに延びているのだそうです。日光街道の杉並木の区間は鉢石宿~大沢宿間で総延長16.52km、このほかに日光例幣使街道の今市宿~小倉宿間の13.17km、会津西街道の今市宿~大桑宿間の5.72km。合わせて約37km弱あります。いずれも日光二荒山神社の領内を通る道筋で、それ以外の杉並木は後々延長された杉並木です。ここから少し進んだところに「杉並木寄進碑」が立っています。この「杉並木寄進碑」は松平正綱により立てられた碑で、杉並木道の完成を記念して建てられたものです。
この日の街道歩きはここまで。ここから日光街道から外れて、日光宇都宮道路の大沢IC近くにあるコンビニの駐車場まで歩き、そこで待っている観光バスに乗って、さいたま新都心駅まで戻りました。
この日は22,049歩、距離にして15.6km歩きました。距離的には街道歩きとしては別段大したこともなく、標高が東京都心やさいたま市などよりも高いところなので、最高気温は30℃を越えてはいないのですが、距離以上に疲れました。日陰になった杉並木の中を歩いただけでこの疲れかたです。しかも、油断したのか、軽い熱中症にかかりかけました。これが真夏の直射日光が照りつける炎天下の中での歩きだったら…と思うとゾッとします。江戸幕府が旧街道を並木道にすることを奨励した意味がよぉ~く分かる今回の街道歩きでした。
今回の日光街道ダイジェストウォークで歩いた「日光街道の杉並木」は、現在日本で唯一、特別史跡と特別天然記念物の二重の指定を受け、平成3年(1991年)には「世界一長い並木道」としてギネスブックに認定、さらには平成11年(1999年)12月には二荒山神社、日光東照宮などとともに「日光の社寺」として世界遺産の登録を受けたという素晴らしい旧街道で、街道歩きに興味を持たれる人だけでなく、1人でも多くの皆さんに是非一度歩いてみてはいかがですか…とお薦めしたくなるところではあるのですが、難点は周囲の景色があまりに単調であること。ただひたすら杉並木の中を歩くだけなので、圧倒されるのは1回目だけで、2回目となるとこの風景にも慣れてきて、正直ちょっと物足りなさも感じてしまいました。さらに、日光街道は江戸時代からの約400年ほどの歴史しかなく、しかも戊辰戦争でその歴史的遺物の大部分が破壊されているので往時を偲ばせるものが杉並木以外ほとんど残されていないという欠点もあります。私のように昔の旅人も見たであろう周囲の風景を楽しみたい、とか、往時の宿場の雰囲気を偲んでみたいという方にはちょっと物足りなさを感じるかもしれません。繰り返しになりますが、それでも、是非一度歩いてみてはいかが…とお薦めしたくなる旧街道です。日光東照宮だけが日光の魅力ではありません。
日光街道ダイジェストウォークはこの2回で終了です。来月からは再び「中山道六十九次・街道歩き」に戻ります。
【追記】
帰りには今回も東北自動車道の羽生(はにゅう)パーキングエリア(PA)で休憩をとりました。ここ、旧街道歩きの帰りには鉄板(お約束)の場所ですよね。日光の今市宿などと比べ標高が低いので、バスから降りた瞬間、もぁ~っと暑い空気が身体にまとわりついて、暑かったです。繰り返しになりますが、この日の日中の最高気温は、群馬県の伊勢崎市と館林市でいずれも36.7℃、東京都練馬区と埼玉県熊谷市でいずれも36.4℃、さいたま市で36.2℃、水戸市で35.7℃、日光からほど近い栃木県佐野市で35.3℃、千葉市で35.1℃など各地で猛暑日になりました。また、東京の都心と横浜市も34.8℃と厳しい暑さになりました。こりゃあハンパじゃあないです、はい。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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