2017/11/15
中山道六十九次・街道歩き【第17回: 和田峠→岡谷】(その3)
和田峠のサミット(頂上)を過ぎ、あとは下諏訪に向かって下るだけなのですが、和田峠といえば険しいことで知られた中山道でも一二を争う名うての難所です。しかし、峠を越えてしばらくはこれまでと同様とても歩きやすい道が続き、ちょっと拍子抜けします。
ゲッ! おいおいおい、マジかよ。『クマの出没注意』の案内看板が立っています。それによると、中山道の和田峠山中では、度々、クマ(熊)の出没が目撃されているのだそうです。本州ですので、ヒグマではなく、ほんのちょっと小さなツキノワグマだと思われますが、それでも怖い! 体長が1メートル、体重が100kgを超えるほどに成長しますからね。これから冬眠に入るので、この時期は餌を採りに山中を活発に活動中でしょうから。山中には、ちょうど、クリやドングリなどクマが好んで食べそうな木の実がいっぱい実っていますからねぇ~。でもまぁ~、大勢でワイワイガヤガヤお喋りしながら歩いているので、大丈夫でしょう。
下りはじめて数分もすると、突然、急坂に加え肩幅ほどしかない狭い険路、しかも“ガレ場”に変わります。ガレ場とは、山岳登山用語で大小さまざまな石が散乱する礫地のこと。不安定な石が多いので、ガレ場の通過には浮き石や落石に十分に注意が必要です。この崖状の道は昔も今もあまり変わっていないとのことですが、こんな悪路を皇女和宮一行が通ったとは信じがたいほどです。なるほど、噂通りの難所です。10メートルくらい毎に白杭が設けられており、たとえ濃霧になっても道に迷う恐れがないようになっています。
ここからが「賽の河原七曲り」と呼ばれる和田峠西坂下りの最初の急坂になります。急坂で曲がりくねったガレ場で、道幅も狭く、かなり危険な道です。碓氷峠もそうでしたが、ここが150年前ほどまでは我が国の幹線道路の1つだったとは、とても信じられません。
ところどころに「中山道」という案内標識が立っているので、この険しく細い山道が旧中山道であったことが分かります。加えて、ところどころに石仏があったりして、旧街道らしさを漂わせています。
右側のいささか不気味な赤い実は、コンニャクの実です。自生のコンニャク芋が実をつけたのでしょう。和田峠の山中で何度か目にしました。
さらに「賽の河原七曲り」を下っていきます。大きく曲がるところには「七曲り」、「六曲り」と名称が書かれた白い杭が立っていて、その漢数字が徐々に小さくなっているので、もう少しでこの危険な急坂区間も終わりのようです。
ちなみに、江戸時代に編纂された紀行文集『東路記』には和田峠に関して「東坂はやすらかにして西坂はけわし 三月末まで雪多し」と書かれているのだそうです。なるほどこの坂が険しいと言われる西坂なのですね。下りでよかったです。
【第13回】で中山道最大の難所と言われる碓氷峠を越え、【第15回】で笠取峠を越え、今回【第17回】では五街道最大標高の和田峠を越え、さらにこの先では鳥居峠を越えます。とにかく中山道は峠越えの連続です。このアップダウンの激しい山道を敢えて選び、皇女和宮の御降嫁の大行列は通っていったわけです。
仁孝天皇の第八皇女であった皇女和宮内親王が江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室になるために御降嫁のため京の桂御所を御出立なさったのは文久元年(1861年)10月20日のことでした。それに先立つ嘉永7年(1854年)3月3日には日米和親条約が締結されて下田港と箱館(函館)港が開港され、日本国が長い鎖国の時から醒めて広く世界に開国しました。さらにその4年後の安政5年(1858年)6月27日には日米修好通商条約が調印されて、横浜港、長崎港、新潟港、兵庫港が新たに開港され、公使の江戸駐在、領事の各開港地への駐在、江戸と大坂(大阪)の開市、自由貿易、協定関税制度の導入、領事裁判権、外国人居留地の設定等が締結されました。そういう時代背景の中の公武合体策の一環として、皇女和宮の御降嫁は行われたわけです。
御降嫁の御一行は当初は比較的平坦な「東海道」を使って京から江戸に下る予定だったのですが、東海道筋には何本もの大河が流れていて、大水などのために川の水量が増すと、長時間、川を渡ることができなくなることに遭う確率が高いこと、さらには開国から7年が経過し、東海道筋の箱根の関所より東には異人(外国人)が自由に遊行するようになっていたので、何かあってはいけないという理由で、中山道に変更になったのだそうです。
なるほど…とは思うのですが、さぞや大変なことだったろうと推察します。150年前までは新幹線も高速道路もなかったので、京都から東京まで移動することはこんなにも大変なことでした。今年(2017年)は皇紀2677年、2677年という長い日本国の歴史の中で考えれば、150年なんてほんの僅かな時間です。2500年以上はこの中山道を“歩く”のが一般的な交通手段でした。私達はその日本人の歴史の中でとぉ~っても便利になった150年に生まれたことを幸せと思うだけです。そういう者だからこそ、昔の人達の苦労を偲ぶことは、現代に生きる自分達の原点を知る上で大切なことだと思っています。
峠から15分ほど下ると石小屋跡があります。和田峠の下諏訪側(西坂)は急坂が続く難所で、風雪時、通行には困難を極め、大雪が降った時には雪割りの人足も出動する事態となることも多々あったようです。この石小屋は雨や雷、風雪を防ぐための避難小屋でした。石小屋は安政2年(1855年)、下原村の名主・勝五郎によって造られたもので、高さ2メートルの石積みをした上に片屋根を掛けた構造のもので、長さ約55メートルという非常に大きい施設だったと案内板には記載されています。特に、雪が3メートル近くも積もる冬季には、無くてはならない避難所だったそうです。また、冬季には雪割人足がここに“出勤”していたのだそうです。現在は石垣だけが残っています。
さらに急坂をドンドン下っていきます。
再び、白杭の打たれた狭い急坂を一気に下って行くと、石小屋から20分ほどで国道142号線の旧道を横断します。標柱に「諏訪大社秋宮11.1km」と記されています。ということは、ここが和田宿と下諏訪宿のおおよそ中間地点に当たるということです。やれやれ…です。
国道142号線の旧道を横切り、さらに細い山道を下っていきます。
国道142号線の旧道を横切った先も、相変わらず狭くて急坂の笹で覆われた石がゴロゴロ転がっている歩き難い道が続きます。下りでよかった。この急坂を登るのは、正直ちょっとキツイです。
再び国道142号線の旧道を横切ります。中山道の原道は、勾配を緩和するようにジグザグに曲がる国道142号線の旧道を一気に貫くように延びています。それだけ、勾配が急だってことで、一気に下っていく感じです。
再び国道142号線の旧道を横切りしばらく下って行くと、ヒノキの大木の下に文字道祖神と牛頭天王碑が立っています。また、近くには茶屋の墓の跡があります。
6月28日にこのあたりでクマの出没が目撃されたようです。マジかよ…。
その文字道祖神のすぐ近くに西餅屋茶屋跡があります。かつてここは西坂の立場(休憩所)で、茶屋本陣の小口家、それに茶屋の武居家、犬飼家、小松家という4軒の茶屋がありました。東餅屋同様たいへん賑わっていたそうですが、明治の時代に入って交通機関が整備されるとともに中山道を歩く人が激減し、急激に寂れていき、大正時代に離村してしまったとのことです。
名物は「氷餅」で、重湯のようにしたうるち米を氷点下の中で自然乾燥させたものです。江戸時代に編纂された太田南畝(蜀山人)の紀行文「壬戌紀行(じんじゅつきこう)」によると、「西餅屋村の立場にいこふ、ここに名物の氷餅あり、一袋買いて、輿の中にをさむ、袋に日野屋六兵衛とあり」と書かれています。ちなみに、氷餅は東餅屋のほうにはなかったようで、太田南畝が和田峠を越えて東餅屋に行った時には、「東餅屋村の立場には名のみにて氷餅うるものなし、人家七、八軒あれども、いぶせき事いふばかりなし」と書かれているのだそうです。ちょっと辛辣ですね(笑)
ちなみに、太田南畝は享和元年(1801年)2月から翌享和2年3月まで、支配勘定として大阪銅座に出張勤務しており、この「壬戌紀行」はその任を終えて、江戸へ帰る旅路の記録なのだそうです。なので、順番的には西餅屋が先で、次に東餅屋に立ち寄ったようです。
西餅屋茶屋跡のすぐ先で国道142号の旧道を横切り、さらにしばらく行くと一里塚の碑が立っています。
この一里塚は江戸の日本橋から数えて53里目の一里塚で、「西餅屋一里塚」と呼ばれていたそうなのですが、現在では塚らしきものは見当たらず、大きな石でできた一里塚碑のみが置かれているだけです。付近には倒木が多く、道も荒れています。すぐ上には国道142号線(旧道)のガードレールが見えます。
西餅屋一里塚のすぐ先に左が崖になっていて、危険地帯であることを知らせる黄色と黒の通称“虎ロープ”が張られた狭い道に変わります。狭いことに加えて、ここは大小様々な石が散乱する山岳登山用語でいうところの“ガレ場”です。前述のように、不安定な石が多いので、こうしたガレ場の通過には浮き石や落石に十分注意しなくてはいけません。この先は地震などの影響で崩壊してしまい、通行は極めて危険なところなのだそうです。足元に注意を払いながら進みます。
片足くらいの幅の道もあるし、左側は崖のようになっている箇所もあり、大小様々な石がゴロゴロしていて、ちょっと危険な感じです。谷も深く、この日一番の険路です。街道歩きというよりも“登山”です。下りでよかった。
途中に沢を越えるところがあったりします。雨が降った後などは、こんな沢であってもそれなりに増水もするでしょうから、さぞや歩きにくいのではないでしょうか。この日は雨上がりではありましたが、なんとか危険を感じることもなく歩くことができました。
この案内表示は、京側からの登り方向の表示です。私達が下ってきたのは左側の『古往還』と呼ばれる初期の中山道で、直進する後期の中山道は崩落で通行止めになっているようです。さらに山道を下ります。谷底を流れるせせらぎの音が大きくなり、かなり高度が下がってきたことを実感します。
ちょっと距離を感じたのですがそれほど危険とは思えずに20分ほどで危険なガレ場を通過。国道142号線に出てきました。
……(その4)に続きます。
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ゲッ! おいおいおい、マジかよ。『クマの出没注意』の案内看板が立っています。それによると、中山道の和田峠山中では、度々、クマ(熊)の出没が目撃されているのだそうです。本州ですので、ヒグマではなく、ほんのちょっと小さなツキノワグマだと思われますが、それでも怖い! 体長が1メートル、体重が100kgを超えるほどに成長しますからね。これから冬眠に入るので、この時期は餌を採りに山中を活発に活動中でしょうから。山中には、ちょうど、クリやドングリなどクマが好んで食べそうな木の実がいっぱい実っていますからねぇ~。でもまぁ~、大勢でワイワイガヤガヤお喋りしながら歩いているので、大丈夫でしょう。
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下りはじめて数分もすると、突然、急坂に加え肩幅ほどしかない狭い険路、しかも“ガレ場”に変わります。ガレ場とは、山岳登山用語で大小さまざまな石が散乱する礫地のこと。不安定な石が多いので、ガレ場の通過には浮き石や落石に十分に注意が必要です。この崖状の道は昔も今もあまり変わっていないとのことですが、こんな悪路を皇女和宮一行が通ったとは信じがたいほどです。なるほど、噂通りの難所です。10メートルくらい毎に白杭が設けられており、たとえ濃霧になっても道に迷う恐れがないようになっています。
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ここからが「賽の河原七曲り」と呼ばれる和田峠西坂下りの最初の急坂になります。急坂で曲がりくねったガレ場で、道幅も狭く、かなり危険な道です。碓氷峠もそうでしたが、ここが150年前ほどまでは我が国の幹線道路の1つだったとは、とても信じられません。
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ところどころに「中山道」という案内標識が立っているので、この険しく細い山道が旧中山道であったことが分かります。加えて、ところどころに石仏があったりして、旧街道らしさを漂わせています。
右側のいささか不気味な赤い実は、コンニャクの実です。自生のコンニャク芋が実をつけたのでしょう。和田峠の山中で何度か目にしました。
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さらに「賽の河原七曲り」を下っていきます。大きく曲がるところには「七曲り」、「六曲り」と名称が書かれた白い杭が立っていて、その漢数字が徐々に小さくなっているので、もう少しでこの危険な急坂区間も終わりのようです。
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ちなみに、江戸時代に編纂された紀行文集『東路記』には和田峠に関して「東坂はやすらかにして西坂はけわし 三月末まで雪多し」と書かれているのだそうです。なるほどこの坂が険しいと言われる西坂なのですね。下りでよかったです。
【第13回】で中山道最大の難所と言われる碓氷峠を越え、【第15回】で笠取峠を越え、今回【第17回】では五街道最大標高の和田峠を越え、さらにこの先では鳥居峠を越えます。とにかく中山道は峠越えの連続です。このアップダウンの激しい山道を敢えて選び、皇女和宮の御降嫁の大行列は通っていったわけです。
仁孝天皇の第八皇女であった皇女和宮内親王が江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室になるために御降嫁のため京の桂御所を御出立なさったのは文久元年(1861年)10月20日のことでした。それに先立つ嘉永7年(1854年)3月3日には日米和親条約が締結されて下田港と箱館(函館)港が開港され、日本国が長い鎖国の時から醒めて広く世界に開国しました。さらにその4年後の安政5年(1858年)6月27日には日米修好通商条約が調印されて、横浜港、長崎港、新潟港、兵庫港が新たに開港され、公使の江戸駐在、領事の各開港地への駐在、江戸と大坂(大阪)の開市、自由貿易、協定関税制度の導入、領事裁判権、外国人居留地の設定等が締結されました。そういう時代背景の中の公武合体策の一環として、皇女和宮の御降嫁は行われたわけです。
御降嫁の御一行は当初は比較的平坦な「東海道」を使って京から江戸に下る予定だったのですが、東海道筋には何本もの大河が流れていて、大水などのために川の水量が増すと、長時間、川を渡ることができなくなることに遭う確率が高いこと、さらには開国から7年が経過し、東海道筋の箱根の関所より東には異人(外国人)が自由に遊行するようになっていたので、何かあってはいけないという理由で、中山道に変更になったのだそうです。
なるほど…とは思うのですが、さぞや大変なことだったろうと推察します。150年前までは新幹線も高速道路もなかったので、京都から東京まで移動することはこんなにも大変なことでした。今年(2017年)は皇紀2677年、2677年という長い日本国の歴史の中で考えれば、150年なんてほんの僅かな時間です。2500年以上はこの中山道を“歩く”のが一般的な交通手段でした。私達はその日本人の歴史の中でとぉ~っても便利になった150年に生まれたことを幸せと思うだけです。そういう者だからこそ、昔の人達の苦労を偲ぶことは、現代に生きる自分達の原点を知る上で大切なことだと思っています。
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峠から15分ほど下ると石小屋跡があります。和田峠の下諏訪側(西坂)は急坂が続く難所で、風雪時、通行には困難を極め、大雪が降った時には雪割りの人足も出動する事態となることも多々あったようです。この石小屋は雨や雷、風雪を防ぐための避難小屋でした。石小屋は安政2年(1855年)、下原村の名主・勝五郎によって造られたもので、高さ2メートルの石積みをした上に片屋根を掛けた構造のもので、長さ約55メートルという非常に大きい施設だったと案内板には記載されています。特に、雪が3メートル近くも積もる冬季には、無くてはならない避難所だったそうです。また、冬季には雪割人足がここに“出勤”していたのだそうです。現在は石垣だけが残っています。
さらに急坂をドンドン下っていきます。
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再び、白杭の打たれた狭い急坂を一気に下って行くと、石小屋から20分ほどで国道142号線の旧道を横断します。標柱に「諏訪大社秋宮11.1km」と記されています。ということは、ここが和田宿と下諏訪宿のおおよそ中間地点に当たるということです。やれやれ…です。
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国道142号線の旧道を横切り、さらに細い山道を下っていきます。
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国道142号線の旧道を横切った先も、相変わらず狭くて急坂の笹で覆われた石がゴロゴロ転がっている歩き難い道が続きます。下りでよかった。この急坂を登るのは、正直ちょっとキツイです。
再び国道142号線の旧道を横切ります。中山道の原道は、勾配を緩和するようにジグザグに曲がる国道142号線の旧道を一気に貫くように延びています。それだけ、勾配が急だってことで、一気に下っていく感じです。
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再び国道142号線の旧道を横切りしばらく下って行くと、ヒノキの大木の下に文字道祖神と牛頭天王碑が立っています。また、近くには茶屋の墓の跡があります。
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6月28日にこのあたりでクマの出没が目撃されたようです。マジかよ…。
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その文字道祖神のすぐ近くに西餅屋茶屋跡があります。かつてここは西坂の立場(休憩所)で、茶屋本陣の小口家、それに茶屋の武居家、犬飼家、小松家という4軒の茶屋がありました。東餅屋同様たいへん賑わっていたそうですが、明治の時代に入って交通機関が整備されるとともに中山道を歩く人が激減し、急激に寂れていき、大正時代に離村してしまったとのことです。
名物は「氷餅」で、重湯のようにしたうるち米を氷点下の中で自然乾燥させたものです。江戸時代に編纂された太田南畝(蜀山人)の紀行文「壬戌紀行(じんじゅつきこう)」によると、「西餅屋村の立場にいこふ、ここに名物の氷餅あり、一袋買いて、輿の中にをさむ、袋に日野屋六兵衛とあり」と書かれています。ちなみに、氷餅は東餅屋のほうにはなかったようで、太田南畝が和田峠を越えて東餅屋に行った時には、「東餅屋村の立場には名のみにて氷餅うるものなし、人家七、八軒あれども、いぶせき事いふばかりなし」と書かれているのだそうです。ちょっと辛辣ですね(笑)
ちなみに、太田南畝は享和元年(1801年)2月から翌享和2年3月まで、支配勘定として大阪銅座に出張勤務しており、この「壬戌紀行」はその任を終えて、江戸へ帰る旅路の記録なのだそうです。なので、順番的には西餅屋が先で、次に東餅屋に立ち寄ったようです。
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西餅屋茶屋跡のすぐ先で国道142号の旧道を横切り、さらにしばらく行くと一里塚の碑が立っています。
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この一里塚は江戸の日本橋から数えて53里目の一里塚で、「西餅屋一里塚」と呼ばれていたそうなのですが、現在では塚らしきものは見当たらず、大きな石でできた一里塚碑のみが置かれているだけです。付近には倒木が多く、道も荒れています。すぐ上には国道142号線(旧道)のガードレールが見えます。
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西餅屋一里塚のすぐ先に左が崖になっていて、危険地帯であることを知らせる黄色と黒の通称“虎ロープ”が張られた狭い道に変わります。狭いことに加えて、ここは大小様々な石が散乱する山岳登山用語でいうところの“ガレ場”です。前述のように、不安定な石が多いので、こうしたガレ場の通過には浮き石や落石に十分注意しなくてはいけません。この先は地震などの影響で崩壊してしまい、通行は極めて危険なところなのだそうです。足元に注意を払いながら進みます。
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片足くらいの幅の道もあるし、左側は崖のようになっている箇所もあり、大小様々な石がゴロゴロしていて、ちょっと危険な感じです。谷も深く、この日一番の険路です。街道歩きというよりも“登山”です。下りでよかった。
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途中に沢を越えるところがあったりします。雨が降った後などは、こんな沢であってもそれなりに増水もするでしょうから、さぞや歩きにくいのではないでしょうか。この日は雨上がりではありましたが、なんとか危険を感じることもなく歩くことができました。
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この案内表示は、京側からの登り方向の表示です。私達が下ってきたのは左側の『古往還』と呼ばれる初期の中山道で、直進する後期の中山道は崩落で通行止めになっているようです。さらに山道を下ります。谷底を流れるせせらぎの音が大きくなり、かなり高度が下がってきたことを実感します。
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ちょっと距離を感じたのですがそれほど危険とは思えずに20分ほどで危険なガレ場を通過。国道142号線に出てきました。
……(その4)に続きます。
執筆者
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株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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