2017/11/22
中山道六十九次・街道歩き【第17回: 和田峠→岡谷】(その6)
2日目、10月15日(日)は朝から雨が降るあいにくの天気でした。時間雨量が0.5ミリ程度なので本降りという雨の降り方ではないのですが、弊社のオリジナル気象情報サービス『HalexDream!』で確認してみると、その時間雨量が0.5ミリ~1ミリといった弱い雨がこの日は夕方まで降り続ける予報なので、万事休すです。前回【第16回】が台風の接近で中止になったことに加えて、ついに「晴れ男のレジェンド」の伝説が潰えました。残念………。ホテルを出発する時から、上下セパレーツタイプのレインコートを羽織っての街道歩きのスタートです。
2日目のスタートポイントは、前日のゴールポイントだった「樋橋一里塚」の跡碑の存在を示す案内看板のすぐ先にあるドライブインの跡地にある駐車場。いつもは入念にやるスタート前のストレッチ体操ですが、この日は雨模様で、皆さんレインコートを羽織った重装備なので、かなり省略。この日のコースは高低差も少なく、距離もさほど長くないということなので、短縮バージョンのストレッチ体操で済ませて、さっそく出発しました。
私達は国道142号線を歩いていったのですが、中山道はその右下に広がる民家の間を通っていたようです。前日、「樋橋一里塚」が産業廃棄物処理工場の敷地内にあるので見ることができなかった…ということを書きましたが、中山道はその産業廃棄物処理工場の敷地とほとんど同じ高さのまま、砥川の河岸段丘の上を進むようです。いっぽう国道142号線は道路を拡幅するために無理に山腹を切り拓いて道路を建設したようで、高度としては少し高度の高いところを延びています。産業廃棄物処理工場のところ以外に下の道に下りる手段が見つからないので、しばらく国道142号線のほうを歩くことにします。
ほどなく「中山道」の標識が出てきます。中山道の文字の下に「地下道を渡る」と書かれています。国道142号線の反対側を見ると、チューブ状になった地下道の出口と、国道142号線から分岐して斜めに伸びる細い道路が見えます。国道142号線はいくら交通量が多いとは言え、道路の反対側に渡るためにわざわざ地下道を作らないといけないくらいの交通量とは思えません。横断歩道と信号機(それも押しボタン式の歩行者専用の信号機)を設ければ十分なところです。にもかかわらず、ここに地下道が設けられているのは、この地下道が中山道そのものだということのようです。
まず、横断する地下道に向かって国道脇に設けられた階段を下りていくのですが、その距離が必要以上に長いのです。東京都内でも交通量の多い道路で道路を横断するための地下道が設けられているところが幾つかあるのですが、その倍以上の深いところまで下りていきます。階段を下りながら左手を見ると眼下に集落が見えてきます。階段を一番下まで下ったところでその集落から上ってきたと思われる道と合流し、今度は登り坂で国道142号線の下を横断し、道路の反対側に出てきます。なるほどぉ~。地下道で中山道に再合流したってわけですね。かつては、ここをかなり急な勾配の坂道(中山道)が斜めに横切っていたのでしょう。国道142号線を建設するにあたり、その斜めに横切る急勾配の坂道(中山道)をこの地下道で残した…ということのようです。
先ほど地下道に下りる階段のところで見たように、地下道を抜けたところからは斜めに側道が延びています。これが中山道で、鄙びたその道をしばらく進みます。
旧街道らしく、道路脇に道祖神が立っています。この道祖神の特徴的なところは、道祖神を囲むように4本の長い丸太でできた柱が立っているところです。さすがに諏訪地方です。諏訪といえば「諏訪大社」。諏訪大社と言えば神社の周囲を取り囲む“御柱”。諏訪地方では信仰する神を4本の柱で取り囲む地元信仰が深く根付いているようです。
さらに先に進みます。
5分ほど坂を上って行くと立派な松の根元に「木落し坂碑」と書かれた碑が立っています。碑の正面の崖のような草で覆われた急な坂があり、ここが諏訪大社の神事で有名な「木落し坂」と呼ばれる急坂です。「木落し坂」は7年に1度行われる諏訪大社の神事、『御柱祭』の際に、下社(しもしゃ)の春宮と秋宮に立てる巨大なモミ(樅)の大木に氏子の若者達が群がって乗り、最大傾斜35度、落差100メートル余りの急斜面の崖を一気に上から下に滑り落とす雄大な神事が行われることで知られています。その際には落下の反動で若者が放り出され、毎回負傷者が何人も続出するという急坂です。あたり一帯は多数の見物人が埋め尽くし、『御柱祭』のメインイベントとも言える神事です。下から見上げるとかなりの急坂で、大木と一緒に滑り落ちたら相当に危険であろうと実感しちゃいます。
ここで下諏訪町木遣保存会の方から、諏訪大社下社の御柱木遣りについて説明を受けました。信州諏訪地方の六市町村21万人の人々がこぞって参加すると言われる七年に一度の天下の大祭『御柱祭』、正式には「諏訪大社式年造営御柱(みはしら)大祭」と言われる諏訪大社のお祭りです。この祭りは、七年に一度の寅と申の年に行われ、社殿の造営(現在は宝殿のみ)と「御柱」と呼ばれる直径約1メートル、長さ約17メートル、重さ約10トンにもなる樅(モミ)の木の巨木を山から切り出し、それを大勢の人々の力で山から里へ曳き、最後に上社、下社の各社殿の四隅に建てます。
現存する最古の記録では、平安時代の桓武天皇の御代(在位西暦781年~805年)から、信濃国一国をあげて奉仕がなされ、盛大に行われたとなっていますが、それよりも以前から諏訪地方では大木を建立する祭りが行われていたとされていて、明確な起源は判っていないということです。
下社の『御柱祭』で用いられる樅の木の巨木の曳行ルートは、下諏訪町大平にある下社山出しの棚木場が開始地点となります。初日に春宮四、春宮三、秋宮二の順で、2日目は秋宮四、春宮一、春宮二、秋宮三、秋宮一の順で、8本の柱が曳き出されます。最初の見どころはこの手前にある萩倉の大曲(下諏訪町萩倉付近)の急カーブで、この難所を一気に通り抜けられるか、元綱係・梃子衆・追掛綱係の腕の見せ所になります。次の見どころがここ「木落し坂」です。この「木落し坂」は山出し最大の難所とされ、「木落し坂」では、御柱はジリジリと崖の上にせり出し、木遣りの一声で追掛綱(おいかけづな)が斧取衆(よきとりしゅう)によって切られると、巨木が一気に坂を滑り下ります。まさに命懸け。相当の危険を伴うため、一瞬の隙も許されない瞬間で、氏子たちの顔つきも緊張感に包まれます。
「男見るなら七年一度の木落とし、坂落とし」
と謳われています。
下の3枚の写真のうち、一番最後の1枚は下諏訪宿内で見掛けた商店のシャッターに描かれた『御柱祭』の光景です。
『御柱祭』になくてはならないのが「木遣り」です。御柱祭では木遣りが御柱を曳くための合図となります。木遣りは手に持った御幣(おんべ)を高く掲げ、天まで抜けるような澄んだ声で曳行の安全を願い、人々に勇気と力が出るように唄います。その木遣りで人々の心が一つになり、御柱が動くとされ、「木遣りなくして御柱はなく、御柱なくして諏訪はなし、木遣りこそ御柱の華である」と言われているのだそうです。
木遣りには神主が祝詞を上げる時のような節回しに特徴があります。先人の木遣り師たちが節回しを習い、厳しい練習を積んで今日まで受け継がれてきたのだそうです。この日も下諏訪町木遣保存会の方がショボ降る雨の中、見事な声でその木遣りを披露していただきました。長い歴史と誇りを感じさせる美しい歌声でした。
さすがに中山道はこの落差100メートル余りの「木落し坂」の急斜面は通っていません。「木落し坂」の横を幾重にもつづら折れになったちょっと緩やかな斜面で下っていきます。ちょっと緩やか…とは書きましたが、ほんのちょっとだけで、街道としての斜度はかなりのもので、最後は階段になっています。
「木落し坂」の横の斜面を5分ほど歩き、高度差100メートル余りを下りきると、再び国道142号線に戻ります。「諏訪大社春宮3.2km」と書かれた道標の傍らに道祖神や馬頭観音などが集められて祀られています。
坂の先の左手の奥に松尾芭蕉の句碑が立っています。この句碑は「芭蕉200回忌」にあたる明治26年10月12日に地元の有志によって建立されたものだということのようです。句碑には、
「ゆき散や 穂屋のすすきの 刈り残し」
と刻まれています。残念ながら、この地で詠まれた句ではないようです。
その松尾芭蕉の句碑の隣にあるのが「落合発電所」。明治33年(1900年)に運転を開始した水力発電所で、「諏訪地方電気発祥の地」と書かれた木碑が立っています。右側の写真はその落合発電所の放水口で、川の上流にある発電所らしく、透き通った綺麗な水が流れています。
落合橋の手前で、旧道は左手に入ります。
「木落し坂」を下った御柱はこの道を運ばれていくのですね。
このあたりが「注連掛(しめかけ)」と呼ばれる山出しの最終地点です。勇壮に「木落し坂」を下った御柱はその日のうちにこの地に曳きつけられます。翌日には「注連掛祭」が行われ、御柱の四方に白樺(しらはり)の木を立てて、注連縄で囲みます。そして5月の里曳きまで約1ヶ月間安置されます。ちなみに、御柱が注連掛に着いて、柱の曳きつけが終わった後に唄われる「山の神返しの木遣り」で涙する氏子が多い…と、先ほど「木落し坂」のところで説明をしてくださった下諏訪町木遣保存会の方からお聞きしました。緊張の糸が切れたのと、半端ない達成感が涙に結び付くのでしょうね。
また、この注連掛は5月に行われる里曳きの開始地点でもあり、ここで約1ヶ月間安置された御柱は、曳行開始後すぐにこの坂を曳き落とされるのだそうです。
注連掛のすぐ先で、国道142号線と合流します。
旧中山道脇に49℃の温泉が多量に湧き出しています。下諏訪町が管理し、下諏訪の温泉街にはここからパイプラインで送っているのだそうです。
国道142号線の右側は砥川の谷になっています。せせらぎの音が心地いいです。
諏訪湖が見えます。湖面が見える角度から、かなり下ってきたことが分かります。下諏訪宿はまもなくです。
色褪せていますが若草色をした日本電信電話公社(電電公社)のマークと岡谷電報電話局の文字が書かれた標識が電信柱に取り付けられています。公衆電気通信法が電気通信事業法に改正され、それまで半官半民の公共企業体だった日本電信電話公社(電電公社)が民営化され、現在の日本電信電話株式会社 (NTT)に変わったのが昭和60年(1985年)のこと。あれから32年が経過しました。32年経った今でも田舎などでは道路のマンホールなどでTelegraph(電信)とTelephone(電話) を表す2つの“T”の字を上下に円形にかたどった日本電信電話公社(電電公社)のロゴマークを見掛けることがありますが、めっきり数が減ってきました。私は昭和53年(1978年)入社ですので、当時はもちろん日本電信電話公社(電電公社)。スーツの襟に若草色をした日本電信電話公社(電電公社)の襟章を付けていました。懐かしいです。
「木落し坂」を下り国道142号線に合流してから20分ほど歩くと、谷筋に祀られた「山の神」があります。
……(その7)に続きます。
2日目のスタートポイントは、前日のゴールポイントだった「樋橋一里塚」の跡碑の存在を示す案内看板のすぐ先にあるドライブインの跡地にある駐車場。いつもは入念にやるスタート前のストレッチ体操ですが、この日は雨模様で、皆さんレインコートを羽織った重装備なので、かなり省略。この日のコースは高低差も少なく、距離もさほど長くないということなので、短縮バージョンのストレッチ体操で済ませて、さっそく出発しました。
私達は国道142号線を歩いていったのですが、中山道はその右下に広がる民家の間を通っていたようです。前日、「樋橋一里塚」が産業廃棄物処理工場の敷地内にあるので見ることができなかった…ということを書きましたが、中山道はその産業廃棄物処理工場の敷地とほとんど同じ高さのまま、砥川の河岸段丘の上を進むようです。いっぽう国道142号線は道路を拡幅するために無理に山腹を切り拓いて道路を建設したようで、高度としては少し高度の高いところを延びています。産業廃棄物処理工場のところ以外に下の道に下りる手段が見つからないので、しばらく国道142号線のほうを歩くことにします。
ほどなく「中山道」の標識が出てきます。中山道の文字の下に「地下道を渡る」と書かれています。国道142号線の反対側を見ると、チューブ状になった地下道の出口と、国道142号線から分岐して斜めに伸びる細い道路が見えます。国道142号線はいくら交通量が多いとは言え、道路の反対側に渡るためにわざわざ地下道を作らないといけないくらいの交通量とは思えません。横断歩道と信号機(それも押しボタン式の歩行者専用の信号機)を設ければ十分なところです。にもかかわらず、ここに地下道が設けられているのは、この地下道が中山道そのものだということのようです。
まず、横断する地下道に向かって国道脇に設けられた階段を下りていくのですが、その距離が必要以上に長いのです。東京都内でも交通量の多い道路で道路を横断するための地下道が設けられているところが幾つかあるのですが、その倍以上の深いところまで下りていきます。階段を下りながら左手を見ると眼下に集落が見えてきます。階段を一番下まで下ったところでその集落から上ってきたと思われる道と合流し、今度は登り坂で国道142号線の下を横断し、道路の反対側に出てきます。なるほどぉ~。地下道で中山道に再合流したってわけですね。かつては、ここをかなり急な勾配の坂道(中山道)が斜めに横切っていたのでしょう。国道142号線を建設するにあたり、その斜めに横切る急勾配の坂道(中山道)をこの地下道で残した…ということのようです。
先ほど地下道に下りる階段のところで見たように、地下道を抜けたところからは斜めに側道が延びています。これが中山道で、鄙びたその道をしばらく進みます。
旧街道らしく、道路脇に道祖神が立っています。この道祖神の特徴的なところは、道祖神を囲むように4本の長い丸太でできた柱が立っているところです。さすがに諏訪地方です。諏訪といえば「諏訪大社」。諏訪大社と言えば神社の周囲を取り囲む“御柱”。諏訪地方では信仰する神を4本の柱で取り囲む地元信仰が深く根付いているようです。
さらに先に進みます。
5分ほど坂を上って行くと立派な松の根元に「木落し坂碑」と書かれた碑が立っています。碑の正面の崖のような草で覆われた急な坂があり、ここが諏訪大社の神事で有名な「木落し坂」と呼ばれる急坂です。「木落し坂」は7年に1度行われる諏訪大社の神事、『御柱祭』の際に、下社(しもしゃ)の春宮と秋宮に立てる巨大なモミ(樅)の大木に氏子の若者達が群がって乗り、最大傾斜35度、落差100メートル余りの急斜面の崖を一気に上から下に滑り落とす雄大な神事が行われることで知られています。その際には落下の反動で若者が放り出され、毎回負傷者が何人も続出するという急坂です。あたり一帯は多数の見物人が埋め尽くし、『御柱祭』のメインイベントとも言える神事です。下から見上げるとかなりの急坂で、大木と一緒に滑り落ちたら相当に危険であろうと実感しちゃいます。
ここで下諏訪町木遣保存会の方から、諏訪大社下社の御柱木遣りについて説明を受けました。信州諏訪地方の六市町村21万人の人々がこぞって参加すると言われる七年に一度の天下の大祭『御柱祭』、正式には「諏訪大社式年造営御柱(みはしら)大祭」と言われる諏訪大社のお祭りです。この祭りは、七年に一度の寅と申の年に行われ、社殿の造営(現在は宝殿のみ)と「御柱」と呼ばれる直径約1メートル、長さ約17メートル、重さ約10トンにもなる樅(モミ)の木の巨木を山から切り出し、それを大勢の人々の力で山から里へ曳き、最後に上社、下社の各社殿の四隅に建てます。
現存する最古の記録では、平安時代の桓武天皇の御代(在位西暦781年~805年)から、信濃国一国をあげて奉仕がなされ、盛大に行われたとなっていますが、それよりも以前から諏訪地方では大木を建立する祭りが行われていたとされていて、明確な起源は判っていないということです。
下社の『御柱祭』で用いられる樅の木の巨木の曳行ルートは、下諏訪町大平にある下社山出しの棚木場が開始地点となります。初日に春宮四、春宮三、秋宮二の順で、2日目は秋宮四、春宮一、春宮二、秋宮三、秋宮一の順で、8本の柱が曳き出されます。最初の見どころはこの手前にある萩倉の大曲(下諏訪町萩倉付近)の急カーブで、この難所を一気に通り抜けられるか、元綱係・梃子衆・追掛綱係の腕の見せ所になります。次の見どころがここ「木落し坂」です。この「木落し坂」は山出し最大の難所とされ、「木落し坂」では、御柱はジリジリと崖の上にせり出し、木遣りの一声で追掛綱(おいかけづな)が斧取衆(よきとりしゅう)によって切られると、巨木が一気に坂を滑り下ります。まさに命懸け。相当の危険を伴うため、一瞬の隙も許されない瞬間で、氏子たちの顔つきも緊張感に包まれます。
と謳われています。
下の3枚の写真のうち、一番最後の1枚は下諏訪宿内で見掛けた商店のシャッターに描かれた『御柱祭』の光景です。
『御柱祭』になくてはならないのが「木遣り」です。御柱祭では木遣りが御柱を曳くための合図となります。木遣りは手に持った御幣(おんべ)を高く掲げ、天まで抜けるような澄んだ声で曳行の安全を願い、人々に勇気と力が出るように唄います。その木遣りで人々の心が一つになり、御柱が動くとされ、「木遣りなくして御柱はなく、御柱なくして諏訪はなし、木遣りこそ御柱の華である」と言われているのだそうです。
木遣りには神主が祝詞を上げる時のような節回しに特徴があります。先人の木遣り師たちが節回しを習い、厳しい練習を積んで今日まで受け継がれてきたのだそうです。この日も下諏訪町木遣保存会の方がショボ降る雨の中、見事な声でその木遣りを披露していただきました。長い歴史と誇りを感じさせる美しい歌声でした。
さすがに中山道はこの落差100メートル余りの「木落し坂」の急斜面は通っていません。「木落し坂」の横を幾重にもつづら折れになったちょっと緩やかな斜面で下っていきます。ちょっと緩やか…とは書きましたが、ほんのちょっとだけで、街道としての斜度はかなりのもので、最後は階段になっています。
「木落し坂」の横の斜面を5分ほど歩き、高度差100メートル余りを下りきると、再び国道142号線に戻ります。「諏訪大社春宮3.2km」と書かれた道標の傍らに道祖神や馬頭観音などが集められて祀られています。
坂の先の左手の奥に松尾芭蕉の句碑が立っています。この句碑は「芭蕉200回忌」にあたる明治26年10月12日に地元の有志によって建立されたものだということのようです。句碑には、
と刻まれています。残念ながら、この地で詠まれた句ではないようです。
その松尾芭蕉の句碑の隣にあるのが「落合発電所」。明治33年(1900年)に運転を開始した水力発電所で、「諏訪地方電気発祥の地」と書かれた木碑が立っています。右側の写真はその落合発電所の放水口で、川の上流にある発電所らしく、透き通った綺麗な水が流れています。
落合橋の手前で、旧道は左手に入ります。
「木落し坂」を下った御柱はこの道を運ばれていくのですね。
このあたりが「注連掛(しめかけ)」と呼ばれる山出しの最終地点です。勇壮に「木落し坂」を下った御柱はその日のうちにこの地に曳きつけられます。翌日には「注連掛祭」が行われ、御柱の四方に白樺(しらはり)の木を立てて、注連縄で囲みます。そして5月の里曳きまで約1ヶ月間安置されます。ちなみに、御柱が注連掛に着いて、柱の曳きつけが終わった後に唄われる「山の神返しの木遣り」で涙する氏子が多い…と、先ほど「木落し坂」のところで説明をしてくださった下諏訪町木遣保存会の方からお聞きしました。緊張の糸が切れたのと、半端ない達成感が涙に結び付くのでしょうね。
また、この注連掛は5月に行われる里曳きの開始地点でもあり、ここで約1ヶ月間安置された御柱は、曳行開始後すぐにこの坂を曳き落とされるのだそうです。
注連掛のすぐ先で、国道142号線と合流します。
旧中山道脇に49℃の温泉が多量に湧き出しています。下諏訪町が管理し、下諏訪の温泉街にはここからパイプラインで送っているのだそうです。
国道142号線の右側は砥川の谷になっています。せせらぎの音が心地いいです。
諏訪湖が見えます。湖面が見える角度から、かなり下ってきたことが分かります。下諏訪宿はまもなくです。
色褪せていますが若草色をした日本電信電話公社(電電公社)のマークと岡谷電報電話局の文字が書かれた標識が電信柱に取り付けられています。公衆電気通信法が電気通信事業法に改正され、それまで半官半民の公共企業体だった日本電信電話公社(電電公社)が民営化され、現在の日本電信電話株式会社 (NTT)に変わったのが昭和60年(1985年)のこと。あれから32年が経過しました。32年経った今でも田舎などでは道路のマンホールなどでTelegraph(電信)とTelephone(電話) を表す2つの“T”の字を上下に円形にかたどった日本電信電話公社(電電公社)のロゴマークを見掛けることがありますが、めっきり数が減ってきました。私は昭和53年(1978年)入社ですので、当時はもちろん日本電信電話公社(電電公社)。スーツの襟に若草色をした日本電信電話公社(電電公社)の襟章を付けていました。懐かしいです。
「木落し坂」を下り国道142号線に合流してから20分ほど歩くと、谷筋に祀られた「山の神」があります。
……(その7)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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