2017/12/20

中山道六十九次・街道歩き【第18回: 岡谷→贄川宿】(その6)

2日目。朝8時に宿泊したホテル・ルートイン塩尻を観光バスで出発して、この日の街道歩きのスタートポイントである平出遺跡の駐車場を目指します。塩尻市内に宿泊したので平出遺跡まではほんの10分ほどです。

2日目も天気は朝から「晴れ」、それも見事なまでの“秋晴れ”です。夜中に若干弱い雨が降っていたようですが(予報どおり)、それも明け方にはあがったようで、遠くの山の頂き付近を除き、ほとんど雲ひとつない晴天で、しかも、大気中に含まれる塵を夜中の雨がすっかり洗い流したかのように、清々しいまでに濃い青色をした青空が空一面に広がっています。これは秋の移動性高気圧により北から寒気が流れ込んで日本列島上空を乾燥した空気で覆うためで、空が一層澄んで見えます。“秋晴れ”という言葉が特別にあるように、秋の日の晴天は他の季節の晴れや晴天と大きく異なりますよね。この澄みきった濃い青空をバックに、ちょうど盛りを迎えた山々の紅葉がさらに一層映えることでしょう。申し訳ないくらいの絶好の行楽日和です。この日は多くの方々が観光に出掛けられるので、帰りの高速道路は大渋滞するだろうな…って、ちょっと余計なことまで考えちゃいました。

で、この日の問題は気温。弊社ハレックスのオリジナル予報『HalexDream!』によると、朝のこの時間の塩尻宿から贄川宿までのルート上の気温は概ね2℃。明け方は0℃まで下がったようです。さすがに標高が高い塩尻から木曽地方です。日中の最高気温も8℃~9℃で、前日よりもほんのちょっと低い予報です。こういう時に何を着ていくのか…、街道歩きでは晴れていてこのくらいの気温の時が一番悩むんですよね。登山と同様、街道歩きも重ね着が基本です。街道歩きは暑かったり寒かったりの繰り返しです。日中歩いている時はTシャツ一枚でも暑いくらいなのですが、前日のように陽が暮れると一気に気温が下がってダウンジャケットが欲しくなるほど寒くなる時もあります。雨が降ってきた時も同様。慌てて着こんで歩くとすぐ暑くなり、また脱いで、休憩したら寒いのでまた着て…と、服の着脱を何度も繰り返しながら歩いていきます。この時期は街道歩きの絶対必需品であるレインコートに加えて、防寒用のフリースかインナーダウンのベストを1枚、リュックサックに入れておく必要があるので、リュックサックはどうしてもパンパンになってしまいます。結構面倒くさいんです。

結局、この日の私は長袖のポロシャツの上にウインドブレーカーを羽織るというちょっと寒いかな…と思える程度の前日とほぼ同様の格好でスタートし、寒かったら途中でインナーダウンのベストをリュックサックから取り出して着込むということにしました。(この選択は正解で、この日は最後までこの格好のままで歩けました。ただ、夜に東京に戻ってきたら寒くて、インナーダウンのベストを着込んじゃいましたが…。)

平出遺跡の駐車場に到着。街道歩きに入る前に、まずは平出遺跡の見学です。

長野県の中山道沿線には多くの歴史的建造物や遺物が残されています。そうした歴史的遺物の中でも最も古いとされるのがこの『平出遺跡』です。平出遺跡はなんと縄文時代から平安時代にかけて集落があったものがそのまま残っているという大変に珍しい遺跡です。

ここ平出遺跡では、遺跡を回って見ることができる公園と同時に、博物館が設置されており、そちらも見どころが満載です。平出博物館の方では、平出遺跡で発掘された土器や石器など多数の発掘品を見ることができます。大変に興味があったのですが、この日は時間の都合で断念(訪れた時間はまだ開館前でした)。ですが、その平出博物館の学芸員の方から平出遺跡の説明をお聞きすることができました。

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縄文時代は年代的には今から約1万6500年前(紀元前145世紀)から約3000年前(紀元前10世紀)までの期間と言われており、生活用品である土器の出現や、竪穴式住居が登場して、人々が初めて住居を構えて、集まって住む集落が形成された時代です。一方、平安時代は西暦794年から鎌倉幕府が開設される1192年までの約400年にわたる期間で、藤原貴族が栄えた王朝による律令支配の時代です。その頃には鉄器による農耕具が普及し始めており、百姓などによる農地の開墾が盛んに行われるようになってきた時代です。

ここ平出遺跡では縄文時代にあたる紀元前4500年あたりから11世紀前半までと、およそ5000年に及ぶ長い期間の歴史の跡を見ることができる大変に珍しい遺跡です。平出遺跡からはなんと縄文時代から平安時代にわたり当時の住居跡が200軒近くも発見され、住居とともに土器や石器類も多数出土しています。

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なかでも、縄文時代当時の遺跡は約110軒以上も発掘されており、現在の7軒の住居が復元されて見ることができます。その7軒の住居は縄文時代の住居の最大の特徴である茅葺屋根で、当時の信仰の対象であった立石の広場に設営されています。縄文時代の後の弥生時代の遺跡は出土されていませんが、その後の古墳時代の大型住居が復元されており、なんと当時の米などの穀物をネズミなどから守る高床式倉庫を見ることができます。この古墳時代の遺跡では果樹園や森などが整備されており、6世紀末から7世紀にかけての農村の様子を偲ぶことができる大変貴重な遺跡です。更に驚くべきことに平安時代である11世紀前半の住居が4棟も復元されており、まさに一つの遺跡で、縄文時代、古墳時代、平安時代と、3つの時代の暮らしや住居を目の当たりに体感することができます。

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こうしたことから、この平出遺跡は佐賀県の吉野ヶ里遺跡や、静岡県の登呂遺跡などとともに「日本三大遺跡」の一つに数えられたりもしています。 (注:この日本三大遺跡には色々な説があるようで、1つに特定はできませんが、有力なのが、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)、登呂遺跡(静岡県)、平出遺跡(長野県)の3つの遺跡のようです。他にも、原の辻遺跡(長崎県)や尖石遺跡(長野県)などを含める場合もあるようです。)

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およそ5000年に及ぶ長い期間の歴史の跡が残っているということは、ここが農作物が豊富に獲れる非常に肥沃な土地だということなのでしょう。そうそう、平出遺跡のもう一つの見どころが、遺跡の近くにある「平出の泉」です。平出遺跡が国指定の史跡として認定を受けたことから、この平出の泉も塩尻市から史跡に認定されています。この「平出の泉」は山麓の鍾乳洞から大量に地下水が湧き出ることでできている泉で、驚くほど透明な水を湛えています。昔の時代から用水路を通して農業のために使用されてきた泉で、江戸時代からは水場の争いを防ぐために厳格に水の管理がされてきたと伝えられています。「平出」の地名は、この泉から付けられたものです。

「平出遺跡からの北アルプスの眺め」という案内看板が立っています。途中に遮るものがないため、北アルプスの山々が綺麗に見えます。この朝方の時間帯は残念ながらまだ山頂付近に雲がかかっていて、その山々の姿をしっかり確認することはできませんでしたが、雲が晴れるとさぞや雄大な眺望が楽しめるのだろうな…ということは容易に想像できます。既に北アルプスの山々の頂付近は雪で白くなっています。

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平出遺跡の見学の後、ストレッチ体操を終え、2日目の街道歩きをスタートしました。

このあたりが桔梗ヶ原で、前述のように、正平10年(1355年)に南北朝の戦いに関連した合戦が行われた場所です。塩尻宿・洗馬宿の両宿場町が繁栄すると、その中間に位置するこの桔梗ヶ原の一帯は、『塩尻甚句』に「行こか塩尻 帰ろか洗馬へ ここが思案の桔梗ヶ原」と詠われたところでした。

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桔梗ケ原は、松本盆地の南、塩尻市内を流れる奈良井川とその支流である田川に挟まれた河岸段丘の最上段にあたる扇状台地で、その下は砂礫の集まりのような土地でした。水利がよくない上に活火山である乗鞍岳の火山灰も積もった土地で、古くから農耕には適さない場所であるとして原野のまま放置されていました。従って、ススキなどの草原で、家畜の餌や堆肥作りなどの草刈場でした。万葉集にも「信濃なる須賀の荒野にほととぎす 鳴く声聞けば時すぎにけり」と詠われたりもしているほどでした。しかし、明治時代以降開拓が進められたことで、今はブドウなどの果樹やワイン、野菜の一大生産地となっています。

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JR中央本線(西線)の踏切を越え、左手にその中央本線(西線)の線路を見ながら先に進みます。中央本線は東京都の東京駅から新宿駅、長野県塩尻市の塩尻駅を経由して愛知県名古屋市の名古屋駅までを結ぶ鉄道路線です。このうち東京駅から塩尻駅までの区間はJR東日本が運営する中央(東)線と呼ばれ、塩尻駅から名古屋駅までの区間はJR東海が運営する中央(西)線と呼ばれています。先ほど中央(東)線をガードで潜りましたが、そこからここまでの間に塩尻駅があり、こちらは中央(西)線です。JR東日本の区間を過ぎてJR東海の区間に入ったということで、随分と遠くまで歩いてきたな…ということを、改めて実感します。

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農耕には適さない一面の原野であった桔梗ヶ原をブドウなどの果樹の一大生産地に生まれ変わらせたのは、たぶんこの施設があったからでしょう。「長野県中信農業試験場 開場記念碑」と刻まれたデッカい石碑が立っています。ここは現在長野県の「野菜花き試験場」となっています。その県の「野菜花き試験場」を右手に見ながら進みます。

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おやおや、前の班のお一人がブドウ畑の中に入って寄り道をしています。作業をしていた農家の方と何か話をしているようです。この方もこの『中山道六十九次・街道歩き』池袋駅西口出発組の常連で、しかも常に私と同じ“最後尾組”のお一人です。前回の【第17回】でHさんとして登場したその方です。“最後尾組”は好奇心があり過ぎて途中のいろいろなことに関心がいくので、ついつい隊列から遅れて、常に集団の最後尾を歩いているグループのことです。このHさんは植物に造詣が深く、沿道に自然に生えていたり植えられた木々や草花に関心を示されて立ち止まったり写真を撮ったりするので、常に“最後尾組”なのです。まぁ~、お互いにマイペースってことですね。ちなみに、池袋駅西口出発組の常連さんの中で“最後尾組”は4人いて、特に仲がいいのです。添乗員さんはこの“最後尾組”の後ろを歩かないといけないので大変なようです。ですが、時折、脱水症状を起こしたりといった体調の異常による脱落組を介抱したり救済したりする役割をこの“最後尾組”が負うこともあり、まぁ~大目に見てもらってるようです。

ブドウ畑から戻ってきて“最後尾組”に合流したHさんに農家の人と何を話していたのかとお聞きすると、「収穫が終わった今、どういう作業をしているのかと質問していた」とのことでした。さすが!

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この先の「中山道一里塚」交差点の信号で、国道19号線にT字にぶつかります。国道19号線はこの長野県塩尻市の「中山道一里塚」交差点から岐阜県恵那市にかけて旧中山道に相当します。

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「中山道一里塚」信号で左折すると、国道19号線に合流して、しばらく国道19号線の脇を進みます。国道19号線は、愛知県名古屋市から長野県長野市へ至る一般国道です。先ほどまで歩いてきた国道20号線は、東京都中央区の日本橋から長野県塩尻市へ至る一般国道。先ほど沿線を走る鉄道路線が中央(東)線から中央(西)線に変わったことを書かせていただきましたが、国道も変わってきました。道路標識に書かれる地名も変わって東海地方の地名が出てきました。「名古屋まで177km」ですか…。前方に山が広がり、気持よく歩けます。

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国道19号線から左側の草付き道に入ります。2間(3.6メートル)幅の街道が未舗装の農道として250メートルほど残っています。なかなか風情のある道です。

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草付き道が尽きるところで国道19号線を渡り、洗馬郵便局の前を過ぎると、旧道らしい静かな道になります。「雀オドリ」が乗っかる立派な家があります。

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登り坂を登っていきます。道路下に鈴なりの実をつけた柿の木があります。あんな高いところに実った柿の実は危険すぎて採れないですよね。熟して落ちてくるのを下で待ち受けてキャッチするしかないのかな?

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右手下に洗馬宿の街並みと思しき集落が見えてきました。行く手前方に立派な枝振りの松の木もあります。

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……(その7)に続きます。