2017/12/27

中山道六十九次・街道歩き【第18回: 岡谷→贄川宿】(その9)

信州木曽路を代表する銘酒と言えばこれでしょう、『七笑(ななわらい)』。中山道37番目の宿場で関所もあった福島宿(木曽福島)にある酒造メーカー「七笑酒造株式会社」の銘柄です。この“七笑”という名称の由来は木曽義仲の逸話なのだそうです。やはり木曽谷といえば木曽義仲ですね。

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旧道はこの先15分ほど歩くと国道19号線に合流し、さらに15分ほど歩くと次の宿場である本山宿になります。

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洗馬宿と本山宿の間は30町(約3.3km)と短いので、中山道街道歩きをやってきている私達にとってはすぐに着くくらいの感覚です。次の本山宿が近づいてきたところでこういう看板を見掛けました。「親父のそば 息子のうどん」ですか、いいですね。この写真、オレンジ色の勢いに負けてたまたま撮影していたものなのですが、この「親父のそば 息子のうどん」の裏の意味をその後で知ることになります。お楽しみに…(笑)。

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「名古屋まで173km」ですか…。まだまだ先は長いですね。

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国道19号線から分岐点し比較的真っ直ぐな道を歩きます。比較的道幅の広い道路なのですが、国道から離れているので、静かな道です。JR中央本線(西線)が並行して延びていて、その線路の向こう側の山々は見事に色づいています。

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踏切の警報が鳴り、JR東海の在来線を代表する標準型車両とも言える313系直流近郊型電車の2両編成が上り(中津川・名古屋方面)の普通電車として走ってきました。この313系電車、東海道新幹線に乗って名古屋や大阪に出張する時、静岡から米原までのJR東海の区間で隣の東海道本線を並走する姿を時々見かけるのですが、名古屋近郊のような大都市圏だけでなく、中央本線とは言え、無人駅ばかりが続くこんなローカル路線区間でも活躍しているのですね。周囲の鄙びた風景にもしっかり馴染んでいるように感じます。

鉄道マニアと言っても私は“撮り鉄”ではないし、もともと写真撮影はあまり得意ではないのでさほどいい写真は撮れませんでしたが、バックに綺麗に紅葉した山々が入るこの風景です。腕の良い方ならきっと素晴らしい鉄道写真が撮れるのだろうな…って思ってしまいました。

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前方遠くに本山宿の街並みが見えてきました。

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溜池があります。カモ(鴨)が数羽、気持ちよさそうに泳いでいます。よく見ると大量の鯉もいます。

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「瀦水墾田記念碑」です。この石碑は明治18年に起工したこのあたりの田圃の開墾工事に関する記念碑で、大正9年に建てられたもののようです。

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洗馬宿と本山宿の間は約3.3km。中山道では塩名田宿と八幡宿間の約2.9kmに次いで短い宿間距離です。国道19号線から分れて、本山宿に入ってくると、「本山宿」の標柱が迎えてくれます。「本山宿」の標柱が立ってはいますが、宿の本当の入口(江戸方)はもう少し先になります。

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その先の街道の右側に石造文化財群があります。丸文字の徳本上人名号碑や庚申塔など12基が並んでいます。左端の小さな社には、「秋葉神社」という木札が添えられています。

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本山宿(もとやまじゅく)は中山道で江戸の日本橋から数えて32番目の宿場で、慶長19年(1614年)、中山道が塩尻峠越えにルート変更になった時、塩尻宿・洗馬宿と同様に新設された宿場です。ただ、塩尻宿や洗馬宿のように隣村から人々を移動させて新しく造った宿場ではなく、中世からある集落でした。木曽谷の出入口にあたり、昔から政治上、軍事上、極めて重要な地域だったようです。

洗馬宿と本山宿の間は30町(約3.3km)と中山道で2番目に短い区間だということを書かせていただきましたが、これは中山道のルート変更に伴い、新たに北国西街道(善光寺街道)の追分、すなわち交通の要衝であった洗馬に新たに宿場を設けたことでこういう短い宿場間距離になったものと思われます。すなわち、本山宿は北国西街道(善光寺街道)の宿場として中山道がここを通る前から存在していて、洗馬宿~贄川宿間が中山道に組み込まれたことから、中山道の宿場になったということのようです。そのように仮説を立てて思い返してみると、洗馬宿における北国西街道(善光寺街道)との追分の不思議な形状も理解できる気がしてきます。あれはどう見ても平坦なところを真っ直ぐ延びる北国西街道(善光寺街道)のほうが主街道で、斜め上方向に坂道を上がるように分岐する中山道は従街道のような分岐の仕方ですもの。

本山宿は南から上町・下町に区分され、中央には本陣・脇本陣・問屋場がありました。宿場の南に八幡宮、長久寺、常光寺等があり、宿場の北には諏訪神社、奈良井川の対岸には池生神社が祀られていましたが、一部は廃寺となってしまっています。また、本山宿の先には松本藩と尾張藩との境があったので、宿場の南には口留番所が置かれ、女改めや材木改めなどが行われました。

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、本山宿の宿内家数は117軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠34軒で宿内人口は592人であったそうです。本山宿は何回も大火に見舞われ、現在残る建物は幕末から明治時代の建築がほとんどのようです。道に面して平入り出桁造り、千本格子の2階部屋など、宿場時代の面影がよく残っています。

また、この本山宿は“そば切り(信州そば)”の発祥地といわれ、往時は名物のそばを売る店が並び、繁盛していたといわれています。しかし鉄道の駅をこの先の「日出塩」の集落に奪われ、それ以降、一気に衰退をきたしたのですが、地元の方々が宿場の保存に熱心で、国道を宿の東側に移したことで車が減り、かえって旧街道の宿場らしい落ちついた風情がよく残されているところとして、根強いファンの多いところです。

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「本山そばの里」です。前述のように、ここ本山宿は“そば(蕎麦)切り”発祥の地として知られていますが、現在、本山宿で蕎麦が食べられるのはこの「本山そばの里」だけです。この「本山そばの里」は本山宿の振興会がそば切りを復活させたものです。大根おろしを使うのが伝統です。この「本山そばの里」は地元のお母さん方が経営するそば店で、蕎麦打ちはもちろん、薬味のネギや大根などもお母さん達の手作りなのだそうです。この手前の国道19号線沿いで「親父のそば 息子のうどん」という目立つデッカイ看板の店を見掛けましたが、そのお店のお母さんはこの「本山そばの里」で“そば(蕎麦)切り”発祥の地の伝統を守っているのかもしれません。

ちなみに、もともと「そば米」や「そばがき」として食されていた蕎麦を、現在一般的に食されているような「そば切り(麺)」の形として食べるようになったのは16世紀末あたりのことで、これは「うどん」に倣ってのことだそうです。

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この「本山そばの里」のあたりが本山宿の江戸方の入口でした。宿内へ入ると左手に古い旅籠風の民家が現れ、これから入る宿場の雰囲気を感じさせてくれます。国道から外れた本山宿は時間が止まってしまったかのような静かな静かな佇まいの町ですが、比較的広い街道の両側に格子戸の古民家が点在し、風情ある町並みが続いています。

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宿内には米屋、清水屋、青柳屋など昔の屋号が下がった趣ある家が何軒もあリ、多くの旅人が行き交った江戸の時代が想像できます。

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……(その10)に続きます。