2018/01/23

邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その1)

愛媛県東温市にある農業生産法人ジェイ・ウイングファーム代表の牧秀宣さん (愛媛県農業法人協会会長)に誘われて、11月23日(祝)、24日(金)、25日(土)の2泊3日で四国の徳島に旅行に行ってきました。旅行と言っても、邪馬台国が四国にあったことの確証を得るための学術的研究の意味を多分に持った旅行です。

以前、このHalex社オフィシャルブログ『おちゃめ日記』と、私の地元愛媛新聞社の会員制Webサイト「愛媛新聞on-line』に3年以上も連載中の私のコラム『晴れ時々ちょっと横道』の2つの場で「えっ! 邪馬台国は四国にあった?」と題した私独自の「邪馬台国四国説」に関する一文を掲載して、お読みいただいた方の間で一大センセーションを巻き起こしてしまいました。

エッ!邪馬台国は四国にあった?(その1) …(その7)まで続きます。

これは魏志倭人伝を私なりに全文読み解いた会心の作で、これまで歴史学者の間で定説のように言われてきた「九州北部説」と「畿内説」の両者を論理的に完全否定し、邪馬台国までの道程についても最大の謎と言われた投馬国から邪馬台国までの道を実にあっさりと見つけちゃったわけですから。これに関しては、絶対にあちこちから様々な異論や反論が来るだろうと、正直覚悟して待ち構えていたのですが、そういうものは今のところいっさい来ていません。反対に「面白い!」と絶賛の声は多くの方からいただいております。まぁ~、私は歴史学者ではなくて、工学部出身でコンピュータエンジニアあがりのバリバリ理系の人間ですので、私のあの仮説のどこが“論理的”に間違っているのかを指摘していただけるような異論や反論以外は受け付けませんけどね。

試しに「邪馬台国 四国」と入力してネットで検索すると、私の書いた「エッ! 邪馬台国は四国にあった?(その3)」がかなり上位に出てきます。関心を持って読んでいただいた方が多いようです。

その私の「邪馬台国四国説」の中で邪馬台国があったと推定しているのが、四国の中でも徳島県。それも名西郡神山町の一帯でした。ここは近畿地方以西の西日本では石鎚山(標高1,982メートル)に次ぐ2番目の高峰(標高1,955メートル)である霊山「剣山」の麓にあたり、私が投馬国から邪馬台国までの道と推定した国道(酷道)439号線が通っています。さらには、『邪馬台国四国(徳島)説』だけでなく、日本の歴史の始まりは徳島からだった!?…とする『阿波古事記伝説』、あげくは古代イスラエル人が剣山のどこかに秘宝“アーク”を隠し、現在も眠っている!?…とする『ソロモン秘宝伝説』等々、数々の秘められた伝説が残るところのようなのです。特に注目すべきは「神山」という地名。“神の山”というこの地名は“何か”のヒントを物語っているように思いました。

このことを牧さんにお話ししたところ、牧さんも以前から徳島に強い関心を持っていたようで、「徳島はいろいろな意味でヤバい! あそこには我々現代日本人が知らない歴史上の大きな謎が隠されているに違いない!」という話になって大いに盛り上がり、それが講じて「いつか一緒に徳島に行ってみようよ!」ということになり、牧さんの繋がりで、日本や四国の古い歴史に興味をお持ちの方々3名、国家公務員(某省)の岸本さん、食品関連の経営コンサルタントをやっておられる大塚さん、それと料理人の村上さんも参加。実は今回の徳島旅行はこの岸本さん、大塚さん、村上さんの3名の方が最初に企画・計画。この3人から声を掛けられた牧さんがそれに同調して私を誘ったというのが正しいところです。で、この計5名での徳島探訪の旅となったわけです。

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徳島と言えば「阿波おどり」であまりにも有名なところです。到着した徳島空港でも阿波おどりの像が出迎えてくれました。おまけにこの徳島空港、現在のターミナルビルが竣工した平成22年(2010年)より「徳島阿波おどり空港」の愛称が付けられています。最近は空港に様々な愛称が付くようになって、私もこの『おちゃめ日記』で“とんでも名称”について疑問を投げかけたこともあるのですが、その1つの空港です。

えっ!? 鳥取砂丘コナン空港??

ちなみに、ほとんど知られていないことですが、この徳島空港は海上自衛隊徳島航空基地と民間航空機が共用する飛行場で、所有者は防衛省。運営者は海上自衛隊。民間と自衛隊の施設がそれぞれ置かれています。

四国と聞いて皆さんは何を思い浮かべられるでしょうか? 愛媛県……みかん、香川県……うどん、高知県……坂本龍馬、徳島県……阿波踊り。日本列島を形成する北海道、本州、九州、四国という主要な4つの島のうちの1つで、一番小さな島である四国。そこに徳島県、高知県、香川県、そして愛媛県という4つの県があります。この4つの県を合わせた総面積は東北地方の岩手県1県の面積とほぼ同じ。このため四国以外にお住いの方々からすると、4県とも同じように一括りで捉えがちなのですが、実はそうではないのです。そんな小さな島の中に存在するとはいえ、それぞれに歴史的に影響を受けた場所は異なり、瀬戸内海側と太平洋側とでは気候も文化も大きく異なります。

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しかし、4県が共通して持つものがあって、それは山と海というこの地に深く根付く豊かな自然です。四国は南を太平洋、北を瀬戸内海という海に挟まれ、さらにその太平洋と瀬戸内海を結ぶ東の紀伊水道と西の豊後水道という2つの大きな海峡に四方を囲まれた島です。その島の中央部分を東西に貫く中央構造線の南に千数百メートル級の急峻な山々が連なります。日本の国土面積のうち、山地が占める割合は、約3/4で、73~75%くらいと言われています。このように山地が卓越する我が国においても、特に四国はさらに山がちなところなんです。国土数値情報に基づく地方別山地割合をみると、数値の高い順に四国80%、中国74%、中部71%、近畿64%、東北64%、九州64%、北海道49%、関東41%となっています。中でも高知県と愛媛県の両県は山地の割合が86%、83%と8割を超えているのが特徴です。

標高別面積をみると、四国は全国平均に比べ、300メートル~1,000メートルの標高の面積割合が高く、中山間地と言われるところが多いのが特徴です。関西以西の府県別平均標高をみると、1位の奈良県の570メートルに次ぎ、2位は徳島461メートル、3位は高知433メートル、4位は愛媛403メートルと、香川県以外の四国3県は完全な山国といえます。奈良県は海に面していない県なので平均標高が高いのも分かりますが、四国の3県はいずれも海に面していてこの平均標高ということは、驚くべきことだと思います。それはすなわち、四国は海から山がすぐに立ち上がっているような地形と言うことを意味しています。なので、四国に来てみると、視界の中には必ずかなり近いところに山が迫ってきているのに驚かれると思います。

航空写真で空から見ると、四国は一つの大きな山のようにさえ見えます。特に四国山地は幼年期や壮年期の地形が発達し、尾根は鋭く尖り、谷は険しいV字谷をなし、谷底平野は狭いという特徴があります。このため、水害の危険性が高く、昔の集落は祖谷(徳島県)に代表されるように、標高の高い急傾斜地の中腹に立地している集落が多いのが特徴です。このように、これら四国の山容や山村の景観は、なだらかな準平原地形の中国山地や、阿蘇山・由布岳など雄大な九州の山地とは大きく異なります。このあたり、その後の展開で極めて重要なポイントとなります。

また、標高1,982メートルという西日本最高峰の石鎚山をはじめ、標高が1,500メートルを超える山々が屏風のように東西に横たわり、瀬戸内海側と太平洋側の気候の違いを生み、さらには四国島内の人々の交流を長い間妨げてきました。このため、四国の島内を結ぶ陸上交通路はなかなか発達せず、四国の輸送手段は明治期に入るまで海を使った海上交通に主に頼っていました。船を使うのですから、ヒトとモノの交流は四国島内とその対岸との交流もほとんど同じ。むしろ、距離的には対岸の地域との交流のほうが盛んでした。愛媛県の場合は瀬戸内海の対岸である広島県や山口県、九州の大分県との結びつきが深く、香川県の場合は岡山県や兵庫県、徳島県の場合は紀伊水道を隔てた対岸の和歌山県や大阪府との結びつきが深いという特徴があります。また、その流れで、高知県の方々は海を隔てた対岸はアメリカ西海岸…と自慢げに言ったりもします(笑) このように、海を隔てた対岸とのヒトとモノの交流により、4県ともこれまで独自とも言える文化を育ててきました。

また、四国は「四国霊場八十八箇所巡り」のお遍路でも有名です。これは四国に古くから根付いている古い伝統のある巡礼文化です。平成27年(2015年)文化庁より日本遺産の最初の18件の一つとして「四国遍路 ~回遊型巡礼路と独自の巡礼文化~」が選定されました。さらに地元では世界遺産への登録も目論んでいるようです。

巡礼とは、 日常的な生活空間を一時的に離れて、宗教の聖地や聖域に参詣し、聖なるものにより接近しようとする宗教的行動のことで、世界の多くの宗教で重要な宗教儀礼と見なされており、特にその宗教の信者が特定の地域や文化圏を超えて広域に分布している宗教においてはとりわけ大切なものと位置付けられています。

有名なのはユダヤ教やイスラム教での聖地巡礼。古代ユダヤ教では、ソロモン神殿が存在していた時代(紀元前9世紀ころ~紀元前586年)、ユダヤ教徒にとってエルサレムのソロモン神殿が最も重要な聖地であり、成人男性で巡礼可能な人は皆、その地の同神殿を訪れコルバンという供物を捧げることが求められました。イスラム教ではハッジと呼ばれる聖地巡礼があり、イスラム教の聖地であるメッカに巡礼で訪れます。これは、少なくとも生きているうちに一度は行うべきとされる義務という事になっています。

日本でも熊野詣やお伊勢参り、富士講、西国三十三箇所参りや板東三十三箇所参り、秩父三十四箇所参りなどがありますが、対象を四国全土とし、総行程は東海道や中山道といった江戸時代の五街道のどれよりも長い1,100~1,400km(使用する遍路道によって距離は異なります)、その途中にある88箇所もの寺院に順に参っていくというスケールの大きさは、他に例を見ないものです。この巡礼の地が、何故、都から遠く離れた四国なのか……、大いに謎が残るところです。中でも、何故徳島県鳴門市にある霊山寺が1番札所なのかも謎です (たぶん、弘法大師空海が開いた真言宗の聖地・高野山から一番近いからという理由でしょうが…)。

ずっと地元に住んでいるとさほど感じないのでしょうが、地元を離れ東京に出てきて、他の地方出身の方々と交流したり、仕事や観光で日本全国を訪問しているうちに、私は自分が生まれ育った四国というところの特殊性、というか他の地方との違い、違和感のようなものが気になるようになってきていました。特に、愛媛新聞社から依頼されて同社が運営する会員制Webサイト「愛媛新聞on-line」で毎月1回コラムを連載するようになって、地元愛媛県のネタや四国のネタを調べるようになって、その違和感は徐々に大きくなってきました。

中でも、私が生まれ育った愛媛県と最も文化的に離れているのが徳島県のように思います。今でこそ高速道路網が発達して、愛媛県の県庁所在地である松山市と徳島県の県庁所在地である徳島市の間は高速道路を使えば3時間弱で行くことができますが、それ以前は鉄道を利用する場合でも松山駅からいったん香川県の県庁所在地である高松市にJR予讃線を使って行き、高松駅でJR高徳線に乗り換えて徳島駅に瀬戸内海沿いにグルっと遠回りして行くしかありませんでしたから。私自身は転勤族であった父の仕事の関係で愛媛県の伊予三島市(現四国中央市)で生まれ、幼稚園の年長さんと小学校の低学年を松山市で(本籍地は愛媛県今治市で、現在は実家が松山市にあります)、小学校高学年を高知県安芸市で、中学校と高校期を香川県丸亀市で過ごしたので、この3県には愛着もあり、それぞれの県の文化もある程度わかるのですが、徳島県だけは縁が遠く、四国の中でもほとんど未知の土地でした。

そんな私が徳島県のことに注目するようになったのは、今回の徳島旅行でもご一緒する岸本さんから、ご自身がお読みになった非常に面白い本があって、その本の著者による出版記念講演会とサイン会が東京で開かれるとお教えていただいて、それに出席したのがきっかけです。その本というのが香川宣子さんという方の書かれた『日本からあわストーリーが始まります ユダヤアークの秘密の蓋を開いて』(ヒカルランド、2016年1月)。著者の香川宣子さんは徳島県徳島市のご出身。北里大学医学部卒業後、香川医科大学第一内科入局。膠原病、リウマチで有名な倉田典之先生のもとで、日本で初めて膠原病患者の血液フェレーシス方法を発表。南松山病院勤務、道後温泉病院リウマチ科研修を経て現在は徳島市内で内科医院を開業なさっています。代表作品は第一次世界大戦期に日本の徳島県鳴門市大麻町桧(旧板野郡板東町)に開かれた板東俘虜収容所であった史実等をもとにした小説「アヴェ・マリアのヴァイオリン」(KADOKAWA 2013年)。この作品は2014年度の第60回青少年読書感想文全国コンクール課題第図書(高校の部)に選定されています。ちなみに、ベートーヴェンの交響曲第9番が日本で初めて全曲演奏されたのはこの板東収容所だったのだそうです。

香川宣子 公式HP

この『日本からあわストーリーが始まります』を読んだことで、日本、特に徳島県とユダヤとの繋がり、さらには邪馬台国が徳島県の剣山の麓にあったという説に触れ、徳島県という私にとって四国内の未知の土地に大いに興味を持ちました。そのことがこの『おちゃめ日記』でもご紹介した私の邪馬台国四国説「えっ!邪馬台国は四国にあった?」の研究と執筆に繋がります。

徳島県は同じ四国にありながら、私はこれまでほとんどご縁のなかったところで、正直なところ、あまり知識を持ち合わせていません。ですが、調べてみると、何か妙なところなんです。謎深いと言うか……。そうした徳島県を訪れるわけですから、お声をかけていただいた時からこの日を楽しみにしていました。

冷戦時代の極めて難しい時代のアメリカ合衆国において第37代リチャード・ニクソン大統領、及び第38代ジェラルド・フォード大統領時代の国家安全保障問題担当大統領補佐官、及び国務長官を務めたヘンリー・キッシンジャー氏の「その国を知りたければ、その国の“気象”と“地理”を学ばなければならない」という発言は物事の本質を突いた素晴らしい名言であると私は思っています。

私も大いに刺激を受けている元国土交通省河川局長の竹村公太郎さんも著書『日本史の謎は“地形”で解ける』(PHP文庫)の中でヘンリー・キッシンジャー氏のこの名言を引用し、“気象”と“地理”への理解こそ文明を解き明かす鍵となる…と述べられ、土木工学の博士号をお持ちのエンジニア(理系)の観点から、“地形”と“気象”、特に“地形”をベースに歴史の様々な事象(謎)を解き明かしていらっしゃいます。竹村公太郎さんと同じ考え方で、主に“気象”の観点から歴史の謎解きに挑んでおられる『世界史を変えた異常気象』、『気候で読み解く日本の歴史』(ともに日本経済新聞出版社)の著者で農林中金総合研究所客員研究員(日本気象予報士会東京支部長)の田家康 (たんげやすし)さんも、お会いした時にこのヘンリー・キッシンジャー氏の名言を引用されておられました。

日本史の謎は「地形」で解ける

気候で読み解く日本の歴史―異常気象との攻防1400年

『気候で読み解く日本の歴史』続編

私はこの『おちゃめ日記』の場で何度も「世の中の最底辺のインフラは“地形”と“気象”」ということを述べてきましたし、講演においてもこの言葉は、私の基本的な考え方として、お決まりのキャッチコピーのように常にまず一番初めに述べさせていただいております。その意味で、ヘンリー・キッシンジャー氏と竹村公太郎さん、田家康さんに激しく同意します。

これまで歴史はある特定の“人物”を中心にして語られることがほとんどだったのですが、それでは歴史の全貌を解き明かすことはとてもできない…と私は思っています。物事には「なぜ、そういうことになったのか?」という明確な“理由”というものが必ずあります。ある特定の“人物”ではなく、その“人物”が長い人類の歴史の中で今の時代にも語り継がれるようになった“理由”のほうに着目して歴史を読み解いていけば、歴史の真実の姿が朧げながらでも見えてくるというものだ…と、私は思っています。これが私が唱える『理系の歴史学』というものです。

竹村公太郎さんは著書『日本史の謎は“地形”で解ける』(PHP文庫)の中で「文明の構造モデル」についての説明を次のようになさっておられます。「文明は、下部構造と上部構造で構成されている。文明の下部構造は、上部構造(文化)を支えている。その下部構造は、『地形・地理』と『気象』に立脚している。下部構造がしっかりしていれば、上部構造は花開いていく。下部構造が衰退すれば、上部構造も衰退していく。社会の下部構造とは、単なる土木構造物ではない。下部構造は『安全』、『食糧』、『エネルギー』、『交流』という4個の機能で構成されている」……まさにおっしゃる通りです。

『地形・地理』と『気象』の上に立脚した『安全』『食糧』『エネルギー』『交流』という社会(文明)の基礎とも言うべき4個の基本機能の上に、『産業』『商業』『金融』『医療』『教育』『芸術』『スポーツ』などの上部構造(文化)ができあがっているというわけです。当然のこととして、『政治』や『宗教』もこの『地形・地理』と『気象』の上に立脚した『安全』『食糧』『エネルギー』『交流』という社会(文明)の基礎とも言うべき4個の基本機能の上に成り立っているものです。中でも『政治』は内政(国内政治)と外政(対外政治:外交)に大別され、外政の一つの手段が戦争、戦い。歴史で習う“人物”のほとんどはその『政治』や『宗教』に関する“人物”がほとんどです。なので、歴史はその“人物”を中心にして語るだけではダメなんです。その“人物”が出てきたそもそもの社会的な“背景”というものを語らないと。その社会的な“背景”の一番の根っこにあるものが『地形・地理』と『気象』であると私は考えているわけです。でないと、そのある特定の“人物”の陰で同じ『地形・地理』と『気象』の中でともに暮らしてきた歴史にいっさい名前が残っていない圧倒的大多数の一般庶民が可哀想すぎますから。みんな一生懸命にその時代その時代を生き抜いてきたわけですから。歴史はそのある特定の“人物”だけのものではない。私はそう思っています。これはヘンリー・キッシンジャー氏も竹村公太郎さんも田家康さんも同じ考え方であると思います。

そして、『地形・地理』と『気象』は氷河期を考慮しないといけない1万年という長い時間軸の上ならともかく、3000年、4000年という程度の人類の有史以来の時間軸の上ではほとんど現代と変わっていません。『地形・地理』が変化を起こすのは土木技術が進歩した近代以降のことであって、それでも「ひょっこりひょうたん島」のように地面が自由に(勝手気ままに)地球上を移動できるわけでもないので、基本的な部分は大きくは変わりません。『気象』は地球規模の気候変動や大規模な火山の噴火、様々な異常気象と呼ばれる事象の発生によって多少の変動は見られるものの、3000年、4000年という人類の有史以来の時間軸の上で見る限りはさほどの劇的な変化はありません。偏西風や貿易風といった地球上の大きな大気の流れは変わっていませんし、海流の流れも大きくは変わっていません。そして、基本的には安定しています。

しかしながら、その『気象』の安定も時々大きく崩れる時があります。“時代”が大きく動く時って、たいていは『気象』の安定が崩れた時です。そして、『気象』の安定が崩れる時と言うのは、地球規模の気候変動の発生や、大規模な火山の噴火、巨大地震の発生、隕石の衝突、大干ばつの発生、その他様々な異常気象と呼ばれる事象が長期間続いた時などです。社会の一番の根っこにある“気象”が大きく揺らぐわけです。それによってそれまで安定を保っていた社会が突然不安定な状態となり、竹村公太郎さんのおっしゃられるところの文明の下部構造の衰退を招き、『安全』『食糧』『エネルギー』『交流』という社会(文明)の基礎とも言うべき4個の基本機能が揺らいで、新たな勢力の勃興や、新たな宗教の勃興、戦争の勃発といった歴史書に書き残されるような重大な社会的な事象を引き起こすことになるわけです。

このように、歴史書に書き残されるような社会の大きな変化のきっかけには、何らかの『気象』の変化があったと捉えて間違いはないと私は思っています。しかも、『地形・地理』と『気象』といった社会の下部構造の変化は、あまりにも規模が大きいものなので、必ずその証跡を何らかの形で今に残しています。疑いようもない、事実、真実(fact)として。ここが重要なポイントです。理系はまずそうした「fact」をベースに議論を進めないといけません。

そして人間が考えること、やれることは昔も今もさほど大きくは変わっていません。サポートするためのツール(道具)が進化して、やれることの規模や実現するための速度が大きく変わってきているだけのことです。ここが重要なポイントで、これまでの文系主体の(文献調査主体の)歴史学との決定的なアプローチの違いです。歴史は英語では「history」と言いますが、「history」は「his story」の略で、歴史書に書き残されているものはあくまでも誰かの主観を通して纏められたもの、場合によっては時の政権の正統性を世の中に知らしめる手段として用いられてきたもので、必ずしも事実、真実(fact)を正しく書き表したものではない…ということを意識しながら読み解いていかないといけません。ただし、歴史書に書いてあることも隠しようがないことはあるわけで、歴史の真実を読み解くヒントはいっぱい残されています。なので、大前提として、何を目的として書かれたものであるのかを知った上で読み解く必要があります。

そういう意味で、邪馬台国はどこにあったのかをはじめ四国の歴史を論じていただくには、まずは四国の『地形・地理』と『気象』を十分に理解した上で論じていただきたいと思っています。今回の私のブログは、この先、読んでいただく皆さんに、まずは四国、特に徳島の『地形・地理』と『気象』、さらには『文化』の一端を理解していただくことに重点を置き、その上で、邪馬台国はどこにあったのかをはじめ、日本の古代史の謎解きをお読みいただいた方それぞれでお楽しみいただきたいと思っています。ただし、謎解きである以上は、あくまでも論理的にお願いしますね。例えば、私の仮説のここが論理的におかしい!…とかね。そういう建設的なご意見は大歓迎です。歴史の謎を究明するさらなるヒントになりますから(^◇^)



……(その2)に続きます。