2018/02/13
邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その7)
クルマは貞光町(つるぎ市)で国道192号線を左折し、今度は国道438号線を標高1,420メートルの剣山七合目付近にある見ノ越の剣山登山口を目指して、南下していきます。
徳島県地方(阿波国)の内陸部においては、江戸時代には藍づくりが阿波の代表的産業として急速に広がり、陸上交通と吉野川による水運に恵まれたこの貞光町や対岸にある脇町一帯は藍の集散地として栄えました。貞光町は、江戸中期以降に栄えた郷町で、商業と交通の要衝として栄え、昭和30年頃までは山村の葉煙草の収納や、繭・こんにゃくの収穫と引き替えに、農具・日用品・薬品などを購入する人々で賑わいを見せていました。
貞光町の一宇街道(現在の国道438号線)に沿う街路には商家が軒を並べ、商人達はその繁栄ぶりを顕示するように豪勢な「卯建(うだつ)」をあげた町屋を建てました。この貞光町の「卯建(うだつ)」は吉野川の対岸にある脇町に見られる卯建と少し違って、卯建の前半分が一段低く、二段式になっていることに特徴があります。「二層卯建(うだつ)」と呼ばれ、全国的にも珍しいもので、二段式になった防火壁の上に立派な屋根がある重厚なものになっています。
その後鉄道(JR徳島線)や道路(国道192号線)が整備されたことで、産業の中心が徳島市に移り、往時の賑わいは消えてしまいましたが、現在も歴史的な景観だけは残っています。町には うだつの上がった建物が約50軒もあるようです。特に 二重卯建が何軒も続く 中町から南町 にかけての景観は素晴らしいとのことです。
私達もクルマの中からこの卯建の上がった商家が建ち並ぶ光景を観ましたが、素晴らしい…の一言でした。卯建が建ち並ぶ商家の通りは、国道と言っても旧道の区間で、1車線しかない細い道路。路上駐車もできませんし、時間の関係もあって、剣山からの帰りにゆっくり時間をかけて観ようということになったのですが、帰りはこの卯建の上がった商家が建ち並ぶ細い通りを通らず、並走する2車線の新道のほうを通ってしまったので、見逃してしまいました。なので、ここは以下の徳島県の観光情報サイトのほうをご覧ください。
徳島県観光情報サイト「阿波ナビ」
先ほど、貞光町や脇町は藍の集散地であったということを書きました。徳島の歴史を語るとき、藍を除いては語れません。徳島の吉野川流域は藍の栽培が盛んに行われたところでした。
「青は藍より出でて藍より青し」ということわざがありますが、藍染めの青い色は、「JAPAN BLUE」として世界に知られるほど深く鮮やかな日本を代表する色です。 馴染みがあるものとして、サッカー日本代表のユニフォームを「ジャパンブルー」と呼んでいますが、これも「藍色」を表現しているといわれています。 徳島は、この藍染めの元となる藍染料「蒅(すくも)」づくりの本場として、現在もその伝統が引き継がれ、徳島でつくられた蒅(すくも)を阿波藍と呼びます。
徳島県の吉野川流域で藍づくりが盛んになったのには理由があります。それが「吉野川」の存在です。徳島県内を東西に流れる清流「吉野川」は、その昔は、台風襲来時など大雨が降るたびに洪水を繰り返す大変な「暴れ川」でしたが、その氾濫によって流域には肥沃な土が運ばれ、藍作を可能にしたのです。また、洪水は毎年たいてい8月以降に起きるのですが、藍は洪水の襲来する前の7月に収穫することができる作物であったことも、このあたりが藍の栽培で栄えた大きな要因の1つだったと考えられます。
洪水地帯で育った藍は粉にし、乾燥させ発酵させた後で、自然に固まった蒅(すくも)という藍染めの染料となります。この蒅(すくも)は、吉野川の水運によって、江戸や大阪、名古屋などへ出荷されました。脇町などでは、藍問屋の蔵が建ち並び、阿波藍の集散地として繁栄しました。現在も全国で使われる蒅(すくも)のほとんどは徳島県で作られており、まさに徳島は「藍のふるさと」と言えるところです。
阿波藍の起源は平安時代、徳島の山岳地帯で阿波忌部氏が織った荒妙(あらたえ:天皇が大嘗祭で纏う荒妙は、特別に麁服という漢字があてられます)という布を染めるために、栽培が始まったと伝えられています。最古の資料は『見性寺記録』というもので、その中には宝治元年(1247年)に藍住町の見性寺という寺を開基した翠桂(すいけい)和尚が、そのころ寺のあった美馬郡岩倉(現在の美馬市脇町)で藍を栽培して衣を染めたと記されています。その後、藍づくりは吉野川の下流域に広がっていきました。『兵庫北関入船納帳』には、文安2年(1445年)に大量の葉藍が阿波から兵庫の港に荷揚げされたという記録が残っています。
戦国時代には、藍の色の1つである「勝色(かちいろ)」が、勝利に繋がる呼び名という縁起の良さから、武士の鎧下を藍で染める需要が高まり、ここから藍の生産が本格的に行われるようになったといわれています。そして、それまでは、葉藍を水につけて染め液を作る沈殿藍で藍染めを行っていましたが、天文18年(1549年)に阿波の勝瑞城城主・三好義賢が上方から青屋(あおや)四郎兵衛を呼び寄せ、蒅(すくも:藍の葉を発酵させて染料にしたもの)を使った染めの技術と蒅(すくも)の製法が伝わり、三好氏の城のあった勝瑞(しょうずい:現徳島県板野郡藍住町勝瑞)では、蒅(すくも)作りが本格的に行われるようになったと言われています。ちなみに、勝瑞城は鎌倉時代から安土時代まで、淡路国、讃岐国、阿波国の政治、経済、文化の中心地で、中世地方都市としては類例をみないほど城下町が繁栄していたそうです。その後、天正13年(1585年)、阿波国に入国した蜂須賀家政(蜂須賀小六の子)が現在の徳島市に城を築城し、阿波国、淡路国両国の政治、経済、文化の中心地は徳島に移りました。
天正13年(1585年)、蜂須賀家政が徳島の城主となってからは、徳島では藍の生産を保護、奨励したので、いよいよ藍づくりは隆盛を極めました。徳島産の藍は、その品質の高さからも別格扱いとされ、阿波の藍を「本藍」、他の地方の藍を「地藍」と区別されたほどでした。徳島藩は、藍師や藍商から取り立てる租税で藩の財政を確立し、“阿波25万石、藍50万石”とまでいわれるほどになりました。元禄時代には、全国的に木綿が多く生産され、それにともなって阿波藍も大量に生産されるようになり、その作付け面積は、寛政2年(1790年)には6,500町歩(ちょうぶ)、すなわち約6,500ヘクタールもあったという記録が残っています。
明治以降も藍作りは盛んに行われ、北海道から九州まで栽培されるようになり、全国的には明治36年に最高の生産規模になりました。特に徳島県は作付面積、生産量とも全国の過半数を占めていました。 しかし、その後、インドから良質で安価なインド藍が輸入され始め、明治後期からは化学合成された人造藍の輸入が急速に増大し、日本の藍づくりは衰退の一途を辿りました。 徳島県でも昭和41年には僅か4ヘクタールにまで栽培が減少してしまいましたが、阿波藍の魅力は人々を引きつけて止むことはありませんでした。そして、天然藍の持つ美しさや風合いが見直され、藍は全国的にも静かなブームとなっています。
ちなみに、阿波をはじめ日本の藍が染め出す深みのある青を「ジャパンブルー」と最初に呼んだのは、明治8年(1875年)に来日したイギリスの化学者アトキンソンといわれています。 アトキンソン当時の日本人の着物を見て「ジャパンブルー」と呼び賞賛したほか、明治23年(1890年)に来日した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も「この国日本は神秘なブルーに満ちた国」と絶賛しています。
この貞光からは国道438号線を見ノ越という大きな峠にある剣山登山口に向けて貞光川沿いを上流に向かって1時間半ほど走っていくのですが、この国道438号線の徳島県内(特に吉野川以南)の区間は道幅も乗用車がやっと1台通れるくらいに狭く、曲がりくねった坂道になっています。とても国道のイメージとは程遠い、まさに“酷道”です。
前述のように、国道438号線は、徳島県徳島市から佐那河内村、神山町を経て、標高1,420メートルの剣山七合目付近を通る「見ノ越」という大きな峠を越えたところにある剣山登山口を過ぎたところで起点から重複していた国道439号線と分かれ、つるぎ町を北上、貞光町で吉野川も越えてさらに北上。県境の三頭峠で讃岐山脈を越えて香川県に入り、綾歌郡綾歌町を経て香川県坂出市に至る総延長171.9 kmの一般国道です。今はその国道438号線を貞光町から剣山登山口へ向けて南下していっています。南下と書きましたが、ずっと登り坂で、標高のほうは徐々に上がっていっています。
この国道438号線、国道192号線と交差する徳島県の貞光町から北、吉野川を渡り徳島・香川県境の三頭峠を越えて終点の香川県坂出市に至る区間は早くから阿波・讃岐両国の人の往来が盛んな道で、代表的な金毘羅街道(香川県琴平町にある金毘羅さんへの参宮道)の一つでした。長く自動車道路としての整備が遅れていたのですが、1997年に全長2,648メートルの三頭トンネルが開通し、交通事情は劇的に改善しました。国道192号線の先は全線で2車線化され、香川県内に入ると概ね平坦な道が続き、坂出市内は4車線化されています。
いっぽう、国道438号線の国道192号線から南の区間はいわゆる“酷道”です。同じ道路番号の付いた国道でありながら、国道192号を境に北と南では道路の格、整備ともにここまでの差があるとは…と思いたくなります。ずっと1車線の細い道路で、急カーブ、急勾配の坂の連続。道路の整備状況も悪く、クルマの運転には注意が必要となります。慣れないと、とても通れない道路です。ただ、日本百名山の1つである剣山や、剣山スキー場に向かう唯一の道路であることから、交通量は比較的多いように思えます。この国道483号線の貞光町から南の区間は、かつて「一宇(いちう)街道」と呼ばれていました。“一宇”は剣山登山口までの途中にある山村の名前です。
四国山地は地味ながらもその地勢は嶮しく、“酷道”と称せられるこんな国道438号線のような道路でも、国道と名のついた道路以外で縦断することは容易ではありません。特にこの剣山付近は険路の連続であり、現在でもある程度熟達したドライバーでないと縦走するのには困難を要すると思われます。「この道はおそらく役行者(えんのぎょうじゃ)の道だろうな」とは運転している牧さんの言葉ですが、私もそう思います。これは修験道の行者が霊峰剣山に修行や鉱物資源探査に向かうための道だったのでしょう。
11月の下旬なので、四国山地の山々も紅葉で見事に色づいています。その山々の中腹に大きな屋根を持つ立派な家が何軒か見えます。周囲に大した田畑もなく、いったいこんな高い山の中で何をして生活している家なのか…と思ってしまいます。あれだけ大きな屋根を持つ家を構えているということはそれなりの安定収入があるということです。それも昔から。それが気になります。
藍と並んで、徳島県は質の高い手漉き(すき)和紙の生産地としても知られています。徳島県の手漉き和紙の歴史は古く、奈良時代に阿波忌部氏が作った楮(こうぞ)を使った紙が朝廷に献上され、その製法を全国に広めたという記録が残されています。平安時代、京都に図書寮が置かれ官製紙が漉かれていますが、この頃、紙を上納する国は40数ヶ国もあり、もちろんこの中に阿波国も含まれていました。天正13年(1585年)蜂須賀家政が徳島藩主として入国し、産業振興に努め、産業の4木として楮(こうぞ)、桑、茶、漆を定め、特に楮(製紙業)を保護奨励しました。この奨励策により、徳島藩の製紙業は益々盛んになり、尺長紙、中川紙、伊賀紙、仙貨紙、七九寸紙、黄煎紙など阿波手漉和紙の声価を広く天下に轟かせました。明治維新以後は消費生活の変化にともない紙の需要が激増し、明治中期に最盛期を迎え、シカゴやパリの万国博覧会、内国博覧会などへも出品し、賞状や進歩賞などを授与されています。しかし、大正時代に入り大量生産の機械製紙には対抗できず、急速に衰退していってしまいました。阿波和紙は国の伝統工芸品に指定されています。
古くから和紙は楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)という植物(樹木)を主な原材料とし、それらの木の靭皮(植物の外皮の下にある柔らかな内皮)の繊維が使われてきました。それぞれに優れた特質があり、いずれも繊維が長く強靱で、光沢があり、和紙の特徴である薄くて強い性質を持っています。主な生産地は剣山の北側に位置するこの旧麻植郡(現在の吉野川市)一帯や、麻植郡とは剣山を挟んだ反対側の那賀郡那賀町、剣山の西側の三好市池田町…と、剣山を囲む標高の高い山岳地帯で、おそらく、この山の中腹にある大きな屋根を持つ家々は、楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)の栽培や採取をしている農家ではないか…と思われます。
楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)のうち、このあたりで主に栽培されていると思われるのが三椏(みつまた)です。三椏(みつまた)は繊維が柔軟で細くて光沢があり、紙の表面が滑らかで上品な印象を持つのが特徴です。いっぽう、楮(こうぞ)は繊維が太くて長く、強いので、障子紙や表具用紙などの原料として最も多く使用されています。雁皮(がんぴ)は楮の強さと三椏の光沢感を兼ね備え、繊維が細くて短いため、半透明で光沢のある紙が漉けるのが特徴です。
明治の時代になって、日本政府は雁皮(がんぴ)を使って紙幣を作ることを試みたのですが、雁皮(がんぴ)の生育が遅く、栽培が困難であるため、栽培が容易な三椏(みつまた)を原料として研究し、明治12年(1879年)、大蔵省印刷局(現・国立印刷局)抄紙部で苛性ソーダ煮熟法を活用することで、日本の紙幣に使用されるようになりました。国立印刷局に納める「局納みつまた」は、栽培に適した西日本の島根県、岡山県、高知県、徳島県、愛媛県、山口県の6県の高地が生産契約を結んで長く生産されてきたのですが、生産地の過疎化や農家の高齢化、後継者不足により、2005年度以降は生産量が激減し、2016年の時点で使用量の約9割はネパールや中国から輸入されたものに変わってきています。現在、国内では岡山県、徳島県、島根県の3県だけで生産されており、出荷もこの3県の農協に限定されています。手漉き和紙業界でも、野生だけで供給量の限定された雁皮(がんぴ)の代用原料として栽培され、現代の手漉き和紙では、三椏(みつまた)は楮(こうぞ)に次ぐ主要な原料となっています。現代の「手漉き鳥の子和紙ふすま紙」のほとんどは、岡山県、徳島県、島根県の3県だけで生産される三椏(みつまた)を主な原料としています。
そうそう、紙といえば……。(その5)で日本、特に徳島と古代ユダヤとの繋がりについて書いた際、この徳島の地はメソポタミア(現在のイラク・クウェート)南部を占めるバビロニアにいたシュメール人(=ヘブライ人)が長い年月をかけて辿り着いた場所ではないか…ということを書きました。そのシュメール人はチグリス川とユーフラテス川というニ大河川の間にある南部バビロニア地域に高度な文明をもった都市国家を建設していました。これが世界最古の文明であるとされる初期のメソポタミア文明とされるものです。メソポタミア文明と並んで世界四大文明の1つとされているのがナイル川下流域で起こった古代エジプト文明です。その古代エジプト文明といえばパピルス。パピルスは、カヤツリグサ科の植物の一種で、そのパピルスの地上茎の繊維をシート状に成形することで「紙」が作られました。紙を意味する英語の「paper」やフランス語の「papier」などは、このパピルスに由来します。
メソポタミア文明が興ったチグリス川・ユーフラテス川流域と、古代エジプト文明が興ったナイル川流域とは距離的にさほど離れてはいません。おそらく、メソポタミア文明にもパピルスという植物の繊維を利用した紙の製法が伝搬していたと考えてもおかしくはありません。で、メソポタミアの地を追われたシュメール人(ヘブライ人)がこの植物の繊維を利用した紙の製法を持って、徳島の地に移り住み、パピルスではなく、四国の山の中に自生していた楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)という樹木の繊維を用いて紙を作る日本ならではの新しい方法を編み出したのが阿波手漉き和紙と言えるのかもしれません。それをやったのも阿波忌部氏ってことなんでしょう。ちなみに、日本で和紙が使われていたと明確に記録が残っているのは、「和をもって尊しとなす」で有名な聖徳太子が作ったとされる『十七条の憲法』で、推古天皇12年(西暦604年)のことです。『十七条の憲法』を発布した頃に、聖徳太子は仏教を布教するために法隆寺を建立(西暦607年)したり、多くの仏典の写経をしたりしています。ということは莫大な量の紙の需要が発生したわけで、日本での和紙の製造はそれ以前に始まっていたと推定されます。
クルマはクネクネと曲がる細い国道438号線を徐々に登っていきます。たまに対向車と出くわすのですが、そういう時は退避できる所やカーブで少し道幅が広くなっている所で待ち、すれ違います。周囲の山々の紅葉が綺麗です。
道路脇の山肌からは岩の間から湧き出した清水が幾つも滝になって流れ落ちています。この滝を流れ落ちる清水が集まって貞光川に、そして「四国三郎」と言われる四国一の大河・吉野川となって海(紀伊水道)に流れ出るわけですね。
その滝が流れ落ちる反対側は深い谷になっています。国道438号線はこの深い谷を分け入るように進んでいきます。標高がかなり高くなってきました。気圧差で耳がツーンとします。気温も随分と下がってきました。2℃くらいでしょうか。
……(その8)に続きます。
徳島県地方(阿波国)の内陸部においては、江戸時代には藍づくりが阿波の代表的産業として急速に広がり、陸上交通と吉野川による水運に恵まれたこの貞光町や対岸にある脇町一帯は藍の集散地として栄えました。貞光町は、江戸中期以降に栄えた郷町で、商業と交通の要衝として栄え、昭和30年頃までは山村の葉煙草の収納や、繭・こんにゃくの収穫と引き替えに、農具・日用品・薬品などを購入する人々で賑わいを見せていました。
貞光町の一宇街道(現在の国道438号線)に沿う街路には商家が軒を並べ、商人達はその繁栄ぶりを顕示するように豪勢な「卯建(うだつ)」をあげた町屋を建てました。この貞光町の「卯建(うだつ)」は吉野川の対岸にある脇町に見られる卯建と少し違って、卯建の前半分が一段低く、二段式になっていることに特徴があります。「二層卯建(うだつ)」と呼ばれ、全国的にも珍しいもので、二段式になった防火壁の上に立派な屋根がある重厚なものになっています。
その後鉄道(JR徳島線)や道路(国道192号線)が整備されたことで、産業の中心が徳島市に移り、往時の賑わいは消えてしまいましたが、現在も歴史的な景観だけは残っています。町には うだつの上がった建物が約50軒もあるようです。特に 二重卯建が何軒も続く 中町から南町 にかけての景観は素晴らしいとのことです。
私達もクルマの中からこの卯建の上がった商家が建ち並ぶ光景を観ましたが、素晴らしい…の一言でした。卯建が建ち並ぶ商家の通りは、国道と言っても旧道の区間で、1車線しかない細い道路。路上駐車もできませんし、時間の関係もあって、剣山からの帰りにゆっくり時間をかけて観ようということになったのですが、帰りはこの卯建の上がった商家が建ち並ぶ細い通りを通らず、並走する2車線の新道のほうを通ってしまったので、見逃してしまいました。なので、ここは以下の徳島県の観光情報サイトのほうをご覧ください。
徳島県観光情報サイト「阿波ナビ」
先ほど、貞光町や脇町は藍の集散地であったということを書きました。徳島の歴史を語るとき、藍を除いては語れません。徳島の吉野川流域は藍の栽培が盛んに行われたところでした。
「青は藍より出でて藍より青し」ということわざがありますが、藍染めの青い色は、「JAPAN BLUE」として世界に知られるほど深く鮮やかな日本を代表する色です。 馴染みがあるものとして、サッカー日本代表のユニフォームを「ジャパンブルー」と呼んでいますが、これも「藍色」を表現しているといわれています。 徳島は、この藍染めの元となる藍染料「蒅(すくも)」づくりの本場として、現在もその伝統が引き継がれ、徳島でつくられた蒅(すくも)を阿波藍と呼びます。
徳島県の吉野川流域で藍づくりが盛んになったのには理由があります。それが「吉野川」の存在です。徳島県内を東西に流れる清流「吉野川」は、その昔は、台風襲来時など大雨が降るたびに洪水を繰り返す大変な「暴れ川」でしたが、その氾濫によって流域には肥沃な土が運ばれ、藍作を可能にしたのです。また、洪水は毎年たいてい8月以降に起きるのですが、藍は洪水の襲来する前の7月に収穫することができる作物であったことも、このあたりが藍の栽培で栄えた大きな要因の1つだったと考えられます。
洪水地帯で育った藍は粉にし、乾燥させ発酵させた後で、自然に固まった蒅(すくも)という藍染めの染料となります。この蒅(すくも)は、吉野川の水運によって、江戸や大阪、名古屋などへ出荷されました。脇町などでは、藍問屋の蔵が建ち並び、阿波藍の集散地として繁栄しました。現在も全国で使われる蒅(すくも)のほとんどは徳島県で作られており、まさに徳島は「藍のふるさと」と言えるところです。
阿波藍の起源は平安時代、徳島の山岳地帯で阿波忌部氏が織った荒妙(あらたえ:天皇が大嘗祭で纏う荒妙は、特別に麁服という漢字があてられます)という布を染めるために、栽培が始まったと伝えられています。最古の資料は『見性寺記録』というもので、その中には宝治元年(1247年)に藍住町の見性寺という寺を開基した翠桂(すいけい)和尚が、そのころ寺のあった美馬郡岩倉(現在の美馬市脇町)で藍を栽培して衣を染めたと記されています。その後、藍づくりは吉野川の下流域に広がっていきました。『兵庫北関入船納帳』には、文安2年(1445年)に大量の葉藍が阿波から兵庫の港に荷揚げされたという記録が残っています。
戦国時代には、藍の色の1つである「勝色(かちいろ)」が、勝利に繋がる呼び名という縁起の良さから、武士の鎧下を藍で染める需要が高まり、ここから藍の生産が本格的に行われるようになったといわれています。そして、それまでは、葉藍を水につけて染め液を作る沈殿藍で藍染めを行っていましたが、天文18年(1549年)に阿波の勝瑞城城主・三好義賢が上方から青屋(あおや)四郎兵衛を呼び寄せ、蒅(すくも:藍の葉を発酵させて染料にしたもの)を使った染めの技術と蒅(すくも)の製法が伝わり、三好氏の城のあった勝瑞(しょうずい:現徳島県板野郡藍住町勝瑞)では、蒅(すくも)作りが本格的に行われるようになったと言われています。ちなみに、勝瑞城は鎌倉時代から安土時代まで、淡路国、讃岐国、阿波国の政治、経済、文化の中心地で、中世地方都市としては類例をみないほど城下町が繁栄していたそうです。その後、天正13年(1585年)、阿波国に入国した蜂須賀家政(蜂須賀小六の子)が現在の徳島市に城を築城し、阿波国、淡路国両国の政治、経済、文化の中心地は徳島に移りました。
天正13年(1585年)、蜂須賀家政が徳島の城主となってからは、徳島では藍の生産を保護、奨励したので、いよいよ藍づくりは隆盛を極めました。徳島産の藍は、その品質の高さからも別格扱いとされ、阿波の藍を「本藍」、他の地方の藍を「地藍」と区別されたほどでした。徳島藩は、藍師や藍商から取り立てる租税で藩の財政を確立し、“阿波25万石、藍50万石”とまでいわれるほどになりました。元禄時代には、全国的に木綿が多く生産され、それにともなって阿波藍も大量に生産されるようになり、その作付け面積は、寛政2年(1790年)には6,500町歩(ちょうぶ)、すなわち約6,500ヘクタールもあったという記録が残っています。
明治以降も藍作りは盛んに行われ、北海道から九州まで栽培されるようになり、全国的には明治36年に最高の生産規模になりました。特に徳島県は作付面積、生産量とも全国の過半数を占めていました。 しかし、その後、インドから良質で安価なインド藍が輸入され始め、明治後期からは化学合成された人造藍の輸入が急速に増大し、日本の藍づくりは衰退の一途を辿りました。 徳島県でも昭和41年には僅か4ヘクタールにまで栽培が減少してしまいましたが、阿波藍の魅力は人々を引きつけて止むことはありませんでした。そして、天然藍の持つ美しさや風合いが見直され、藍は全国的にも静かなブームとなっています。
ちなみに、阿波をはじめ日本の藍が染め出す深みのある青を「ジャパンブルー」と最初に呼んだのは、明治8年(1875年)に来日したイギリスの化学者アトキンソンといわれています。 アトキンソン当時の日本人の着物を見て「ジャパンブルー」と呼び賞賛したほか、明治23年(1890年)に来日した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も「この国日本は神秘なブルーに満ちた国」と絶賛しています。
この貞光からは国道438号線を見ノ越という大きな峠にある剣山登山口に向けて貞光川沿いを上流に向かって1時間半ほど走っていくのですが、この国道438号線の徳島県内(特に吉野川以南)の区間は道幅も乗用車がやっと1台通れるくらいに狭く、曲がりくねった坂道になっています。とても国道のイメージとは程遠い、まさに“酷道”です。
前述のように、国道438号線は、徳島県徳島市から佐那河内村、神山町を経て、標高1,420メートルの剣山七合目付近を通る「見ノ越」という大きな峠を越えたところにある剣山登山口を過ぎたところで起点から重複していた国道439号線と分かれ、つるぎ町を北上、貞光町で吉野川も越えてさらに北上。県境の三頭峠で讃岐山脈を越えて香川県に入り、綾歌郡綾歌町を経て香川県坂出市に至る総延長171.9 kmの一般国道です。今はその国道438号線を貞光町から剣山登山口へ向けて南下していっています。南下と書きましたが、ずっと登り坂で、標高のほうは徐々に上がっていっています。
この国道438号線、国道192号線と交差する徳島県の貞光町から北、吉野川を渡り徳島・香川県境の三頭峠を越えて終点の香川県坂出市に至る区間は早くから阿波・讃岐両国の人の往来が盛んな道で、代表的な金毘羅街道(香川県琴平町にある金毘羅さんへの参宮道)の一つでした。長く自動車道路としての整備が遅れていたのですが、1997年に全長2,648メートルの三頭トンネルが開通し、交通事情は劇的に改善しました。国道192号線の先は全線で2車線化され、香川県内に入ると概ね平坦な道が続き、坂出市内は4車線化されています。
いっぽう、国道438号線の国道192号線から南の区間はいわゆる“酷道”です。同じ道路番号の付いた国道でありながら、国道192号を境に北と南では道路の格、整備ともにここまでの差があるとは…と思いたくなります。ずっと1車線の細い道路で、急カーブ、急勾配の坂の連続。道路の整備状況も悪く、クルマの運転には注意が必要となります。慣れないと、とても通れない道路です。ただ、日本百名山の1つである剣山や、剣山スキー場に向かう唯一の道路であることから、交通量は比較的多いように思えます。この国道483号線の貞光町から南の区間は、かつて「一宇(いちう)街道」と呼ばれていました。“一宇”は剣山登山口までの途中にある山村の名前です。
四国山地は地味ながらもその地勢は嶮しく、“酷道”と称せられるこんな国道438号線のような道路でも、国道と名のついた道路以外で縦断することは容易ではありません。特にこの剣山付近は険路の連続であり、現在でもある程度熟達したドライバーでないと縦走するのには困難を要すると思われます。「この道はおそらく役行者(えんのぎょうじゃ)の道だろうな」とは運転している牧さんの言葉ですが、私もそう思います。これは修験道の行者が霊峰剣山に修行や鉱物資源探査に向かうための道だったのでしょう。
11月の下旬なので、四国山地の山々も紅葉で見事に色づいています。その山々の中腹に大きな屋根を持つ立派な家が何軒か見えます。周囲に大した田畑もなく、いったいこんな高い山の中で何をして生活している家なのか…と思ってしまいます。あれだけ大きな屋根を持つ家を構えているということはそれなりの安定収入があるということです。それも昔から。それが気になります。
藍と並んで、徳島県は質の高い手漉き(すき)和紙の生産地としても知られています。徳島県の手漉き和紙の歴史は古く、奈良時代に阿波忌部氏が作った楮(こうぞ)を使った紙が朝廷に献上され、その製法を全国に広めたという記録が残されています。平安時代、京都に図書寮が置かれ官製紙が漉かれていますが、この頃、紙を上納する国は40数ヶ国もあり、もちろんこの中に阿波国も含まれていました。天正13年(1585年)蜂須賀家政が徳島藩主として入国し、産業振興に努め、産業の4木として楮(こうぞ)、桑、茶、漆を定め、特に楮(製紙業)を保護奨励しました。この奨励策により、徳島藩の製紙業は益々盛んになり、尺長紙、中川紙、伊賀紙、仙貨紙、七九寸紙、黄煎紙など阿波手漉和紙の声価を広く天下に轟かせました。明治維新以後は消費生活の変化にともない紙の需要が激増し、明治中期に最盛期を迎え、シカゴやパリの万国博覧会、内国博覧会などへも出品し、賞状や進歩賞などを授与されています。しかし、大正時代に入り大量生産の機械製紙には対抗できず、急速に衰退していってしまいました。阿波和紙は国の伝統工芸品に指定されています。
古くから和紙は楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)という植物(樹木)を主な原材料とし、それらの木の靭皮(植物の外皮の下にある柔らかな内皮)の繊維が使われてきました。それぞれに優れた特質があり、いずれも繊維が長く強靱で、光沢があり、和紙の特徴である薄くて強い性質を持っています。主な生産地は剣山の北側に位置するこの旧麻植郡(現在の吉野川市)一帯や、麻植郡とは剣山を挟んだ反対側の那賀郡那賀町、剣山の西側の三好市池田町…と、剣山を囲む標高の高い山岳地帯で、おそらく、この山の中腹にある大きな屋根を持つ家々は、楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)の栽培や採取をしている農家ではないか…と思われます。
楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)のうち、このあたりで主に栽培されていると思われるのが三椏(みつまた)です。三椏(みつまた)は繊維が柔軟で細くて光沢があり、紙の表面が滑らかで上品な印象を持つのが特徴です。いっぽう、楮(こうぞ)は繊維が太くて長く、強いので、障子紙や表具用紙などの原料として最も多く使用されています。雁皮(がんぴ)は楮の強さと三椏の光沢感を兼ね備え、繊維が細くて短いため、半透明で光沢のある紙が漉けるのが特徴です。
明治の時代になって、日本政府は雁皮(がんぴ)を使って紙幣を作ることを試みたのですが、雁皮(がんぴ)の生育が遅く、栽培が困難であるため、栽培が容易な三椏(みつまた)を原料として研究し、明治12年(1879年)、大蔵省印刷局(現・国立印刷局)抄紙部で苛性ソーダ煮熟法を活用することで、日本の紙幣に使用されるようになりました。国立印刷局に納める「局納みつまた」は、栽培に適した西日本の島根県、岡山県、高知県、徳島県、愛媛県、山口県の6県の高地が生産契約を結んで長く生産されてきたのですが、生産地の過疎化や農家の高齢化、後継者不足により、2005年度以降は生産量が激減し、2016年の時点で使用量の約9割はネパールや中国から輸入されたものに変わってきています。現在、国内では岡山県、徳島県、島根県の3県だけで生産されており、出荷もこの3県の農協に限定されています。手漉き和紙業界でも、野生だけで供給量の限定された雁皮(がんぴ)の代用原料として栽培され、現代の手漉き和紙では、三椏(みつまた)は楮(こうぞ)に次ぐ主要な原料となっています。現代の「手漉き鳥の子和紙ふすま紙」のほとんどは、岡山県、徳島県、島根県の3県だけで生産される三椏(みつまた)を主な原料としています。
そうそう、紙といえば……。(その5)で日本、特に徳島と古代ユダヤとの繋がりについて書いた際、この徳島の地はメソポタミア(現在のイラク・クウェート)南部を占めるバビロニアにいたシュメール人(=ヘブライ人)が長い年月をかけて辿り着いた場所ではないか…ということを書きました。そのシュメール人はチグリス川とユーフラテス川というニ大河川の間にある南部バビロニア地域に高度な文明をもった都市国家を建設していました。これが世界最古の文明であるとされる初期のメソポタミア文明とされるものです。メソポタミア文明と並んで世界四大文明の1つとされているのがナイル川下流域で起こった古代エジプト文明です。その古代エジプト文明といえばパピルス。パピルスは、カヤツリグサ科の植物の一種で、そのパピルスの地上茎の繊維をシート状に成形することで「紙」が作られました。紙を意味する英語の「paper」やフランス語の「papier」などは、このパピルスに由来します。
メソポタミア文明が興ったチグリス川・ユーフラテス川流域と、古代エジプト文明が興ったナイル川流域とは距離的にさほど離れてはいません。おそらく、メソポタミア文明にもパピルスという植物の繊維を利用した紙の製法が伝搬していたと考えてもおかしくはありません。で、メソポタミアの地を追われたシュメール人(ヘブライ人)がこの植物の繊維を利用した紙の製法を持って、徳島の地に移り住み、パピルスではなく、四国の山の中に自生していた楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)という樹木の繊維を用いて紙を作る日本ならではの新しい方法を編み出したのが阿波手漉き和紙と言えるのかもしれません。それをやったのも阿波忌部氏ってことなんでしょう。ちなみに、日本で和紙が使われていたと明確に記録が残っているのは、「和をもって尊しとなす」で有名な聖徳太子が作ったとされる『十七条の憲法』で、推古天皇12年(西暦604年)のことです。『十七条の憲法』を発布した頃に、聖徳太子は仏教を布教するために法隆寺を建立(西暦607年)したり、多くの仏典の写経をしたりしています。ということは莫大な量の紙の需要が発生したわけで、日本での和紙の製造はそれ以前に始まっていたと推定されます。
クルマはクネクネと曲がる細い国道438号線を徐々に登っていきます。たまに対向車と出くわすのですが、そういう時は退避できる所やカーブで少し道幅が広くなっている所で待ち、すれ違います。周囲の山々の紅葉が綺麗です。
道路脇の山肌からは岩の間から湧き出した清水が幾つも滝になって流れ落ちています。この滝を流れ落ちる清水が集まって貞光川に、そして「四国三郎」と言われる四国一の大河・吉野川となって海(紀伊水道)に流れ出るわけですね。
その滝が流れ落ちる反対側は深い谷になっています。国道438号線はこの深い谷を分け入るように進んでいきます。標高がかなり高くなってきました。気圧差で耳がツーンとします。気温も随分と下がってきました。2℃くらいでしょうか。
……(その8)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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