2018/03/13

邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その15)

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日本全国の山村に「平家の落人村」という伝承が残されていると思いますが、中でもここ四国は他のどの地域以上に平家の落人村の伝承が残されているところです。平家の落人(おちうど)とは、源平合戦として知られる「治承・寿永の乱」において敗北し僻地に隠遁した敗残者のことです。四国に平家の落人の伝承が多いのは、源氏と平家の合戦は主に一ノや屋島、壇ノ浦といった瀬戸内海周辺で繰り広げられたのが大きく関係していると思います。なんと言っても、瀬戸内海は四国の目の前に広がる庭のような海ですからね。

正直な話、私の母方の祖父の生家はそうした平家の落人の伝承が残る山の中の集落でした。平成の大合併により今は愛媛県西条市に組み込まれていますが、かつては愛媛県周桑郡丹原町保井野(ほいの)というところでした。保井野は昭和30年(1955年)まで周桑郡桜樹村保井野、昭和30年に中川村と合併して中川村となり、昭和31年(1956年)に丹原町と合併し、平成16年(2004年)、平成の大合併により西条市に編入されました。祖父は若い頃にその山深い保井野集落を出て新居浜市にある住友別子銅山に鉱山技師として勤めたので、私の母は新居浜市の出身です。

祖父は優秀な鉱山技師だったようなのですが、戦後、食糧事情が悪くなったことから住友別子銅山を退職して、母達家族を引き連れて保井野に戻ろうと思い立ち、その準備のために家族より一足先に保井野に戻る途中の山道で九死に一生を得るほどの交通事故に遭いました。その事故により長期の治療を必要とすることから、祖母の実家のあった丹原町の湯谷口という新居浜市よりは保井野に近い国道11号線沿いの集落に住まいを移しました。私が生まれる10年も前のことです。なので、私は保井野にはずっと行ったことがありませんでした。子供の頃、「我が家の先祖は平家の落人かもしれない」というようなことを何度か聞かされて、あまり面白くない思いをしたことがあります。しかし、10年ほど前に松山市に帰省した折、子供の頃、何度も耳にした保井野というところがいったいどういうところなのかを確かめたくて(私にとっては母方のルーツの場所ですから)、ふと思い立ってレンタカーを借り、その保井野集落に行ってみたことがあります。そこで見たものに私はかなりの衝撃を受けました。「ここは“マチュピチュ (南米ペルーの高い山の上にあるインカの空中都市の遺跡)”か、“天空の城ラピュタ (スタジオジブリ制作の長編アニメーション映画)”か!?」…ってね。

保井野は国道11号線で行くと松山市と西条市の境あたりの桜三里を過ぎたあたりから南に入り、今回の旅行で通った国道438号線以上に整備されていない細い山道を中山川の支流の鞍瀬川の渓谷(鞍瀬渓谷)に沿って30分ほど上流に遡ったところにあります (調べてみると、この山道、愛媛県道153号落合久万線と言うらしいです。保井野の先で未開通のままになっていますが…)。石鎚山系の西の端に位置する堂ヶ森(どうがもり:標高1,689メートル)の中腹にあたり、集落のはずれには登山口(標高560メートル)もあり、たいへんに山深いところです。ちなみに、堂ヶ森(標高1,689メートル)を登ると、そこからは鞍瀬川の源流である鞍瀬ノ頭(くらせのかしら:標高1,889メートル)、二ノ森(にのもり:標高1,929メートル)を経て、石鎚山系の稜線(主稜線)伝いに石鎚山山頂(標高1,982メートル)まで縦走することができます。石鎚山登山ルートの1つです。確かに平家の落人がひっそりと隠れ住むには最適なところなのかもしれません。

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ですが、そこにあったのは、平家の落人のイメージとはかけ離れた光景でした。いったい何をして暮らしていたのか分かりませんが、なかなか立派な大きな家が建ち並ぶ山あいの集落があったのです。今は過疎化が進み、ほとんど人が住んでいないので廃墟が建ち並んでいるだけなのですが、少なくとも、かつてここにそれなりに多くの人が暮らしていたのは確かなようでした。それ以来、私の中で平家の落人のイメージは一般に言われているものとはちょっと違ってきています (私が驚いた保井野の集落はGoogle Maps等の航空写真で確認できます。県道に指定されたので道路は10年ほど前より少し延びているようです)。

そのことを母に話したところ、母は小学生の頃に一度だけ保井野の祖父の生家に連れていってもらったことがあるそうなのですが、母も深い山の中には似つかわしくないほどの茅葺きのあまりに大きく立派な家だったので、ビックリしたと言っていました 。この文章を書くにあたって改めて母に電話して聞いてみたところ、新居浜に移り住んでからも祖父のもとには保井野の人達がたびたび訪ねてきて、祖父はそれらの人達の様々な相談にのっていたのだそうです。母は子供の頃、そうした保井野の方達がお土産に持ってくるキジ(雉)やイノシシ(猪)のお肉を楽しみにしていたのだそうです。また、戦後、愛媛県の職員が文化財調査のためにその保井野の祖父の生家を訪れて、写真を何枚も撮って帰ったのだそうです。そんな話、私は今回初めて聞きました。おそらく祖父の生家は保井野の“長(おさ)”、もしかするとそのあたりの“佐伯氏本家”のような家柄の家だったのではないか…と思われます。ちなみに、祖父はその家の嫡男でした。

(ちなみに、保井野まではマイクロバスですが瀬戸内周桑バスの路線バスが今も1日4往復、西条市小松町の瀬戸内バス周桑営業所から壬生川駅、丹原、湯谷口経由で運行されています。終点は山奥の渓流沿いの行き止まりのようなところにありますが、集落はそこから少し山を徒歩で登った先にあります。路線バスが運行されているということは、今もそれなりに住民が暮らしているということのようです。瀬戸内バスのHPで調べてみると、終点の保井野までの間に幾つもバスの停留所があるのですが、一度クルマで走った感じでは切り立った渓谷の谷底付近を走る道路の両側に人家はほとんどありませんでした。おそらくこの徳島の集落のようにその道路から山道を登った上に人家があるのだろうと思われます。)

一般に平家の落人とは、主に源氏と平家とが雌雄を決した源平合戦で一ノ谷の合戦、屋島の合戦、壇ノ浦の合戦において平家方が連戦連敗を繰り返した中で発生した難民、すなわち平家の一門及びその郎党、平家方に加担した者のことを指すと言われています。平家の落武者とも言いますが、落人の中には武士に限らず公卿や女性や子供なども含まれたため、平家の落人というのが一般的です。こうした平家の落人が特定の地域に逃れた伝承のことを、俗に「平家の落人伝説」などと呼びます。

平家の落人集落はたいていは山の奥深くや離れ島や孤島などに存在しています。どうも平家の落人と呼ばれる人達は人口が少ないところや山間部や谷間など人が立ち寄り難いところに集落を築いているようです。

この徳島県三好市東祖谷もまさにそういう山間部の深い谷間で、こうした立派な屋根を持つ家々が点在しているところです。そのあたりの代表的な平家の落人集落と呼ばれている集落は、この定光寺のあるところからはちょっと離れていますが、国道439号線を前日に行った「かかしの里」、東祖谷の名頃集落からもう少し西に入ったところにある「阿佐(あさ)」と「栗枝渡(くりしと)」と呼ばれる集落です。この両集落は屋島の合戦で敗れた平国盛率いる30名の残党が讃岐山脈を経て阿波へと入り、現在の徳島県東みよし町から三好市井川地区にかけての一帯に住んだが、追手に脅かされてこの奥深い東祖谷に逃げ込み、そこに住んだと伝わっています。このうち、阿佐氏が居住したところが「阿佐(あさ)」集落で、平家屋敷や、平家のものと伝えられる赤旗(軍旗)が数百年前から現存すると言われています。また、安徳天皇が逃れて隠れ住み、同地で崩御したといわれているのが「栗枝渡(くりしと)」集落です。栗枝渡八幡神社には、安徳天皇を火葬した「安徳天皇御火葬場」があり、遺骨を御神体として祀っていると言われています。

この2つの集落名を聞いて、何かに気づかれませんか?

「阿佐(あさ)」は「麻」、阿波忌部氏に繋がります。そして「栗枝渡(くりしと)」は………?

Yes!(そうです!) Christです!

イエス・キリストは「キリストであるイエス」という意味です。イエスは人名で、ヘブライ語からギリシャ語に転写されたもの、そしてキリストは「膏をつけられた者」という意味の、救い主の称号のことです。ヘブライ語ということは古代ユダヤ人です。

これって、何かを意味している…とか、何かが隠されている…って思いませんか?

だとすると、平家の落人とは少なくとも忌部氏。そしてその正体は………。もしそれがその通りだとすると、山間部や谷間など人が立ち寄り難いところに集落を築いてひっそりと隠れ住んでいたというのも理解できる気がしてきます。そして彼等は当時としては卓越した技術集団(技能集団)で、山に眠る鉱物資源の探査・採掘や、麻の栽培、和紙の材料となる楮(こうぞ)や三椏(みつまた)の栽培をして暮らしていた。なので、なかなか立派な大きな家に暮らしていけたのです。

振り返って私の母方の祖父の家系。石鎚山系の山の奥深くにあるなかなか立派な集落の出身で、おそらくその集落の“長(おさ)”の家柄で、鉱山技師。そして母の旧姓は「佐伯(さえき)」です。弘法大師・空海の俗名(幼名)は佐伯 眞魚(さえきのまお)と言い、畏れ多くも弘法大師・空海と同じ苗字です。

この佐伯氏も古代氏族の1つで、姓(かばね)は忌部氏と同じ宿禰(すくね)です。日本神話の天孫降臨の時に瓊々杵尊(ににぎのみこと)を先導した天押日命(あめのおしひのみこと)を祖とし、第19代の允恭(いんぎょう)天皇から第23代の顕宗(けんぞう)天皇に仕えた大伴室屋(おおとものむろや)の時に大伴氏から別れた氏族とされています。また、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征で捕虜にした蝦夷(中部地方以東の東日本)の現地人を近畿地方以西の西日本(主に播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国)に移住させて編成した佐伯部を率いて宮門警備や武力勢力として朝廷に仕えた一族とされています。外敵からの攻撃を「遮(さへ)ぎる者」という意味で「さへき」と呼ばれるようになったとの説があります (歴史的仮名遣いでは「さへき」、現代仮名遣いでは「さえき」と書きます)。ちなみに、弘法大師空海は讃岐国(香川県)の佐伯氏の出身で、安芸国(広島県)の佐伯氏は後に厳島神社の神主家となったのだそうです。祖父は伊予(愛媛県)の佐伯氏の出身ってことになりますね。

調べてみると、その弘法大師・空海に関しては水銀との密接な関わりが数多く指摘されています。私もかつてこの『おちゃめ日記』の場で、このことについて言及させていただきました。

空海はすごい!

空海はすごい!(越智の大胆仮説編:その1)

空海はすごい!(越智の大胆仮説編:その2)

特に「越智の大胆仮説:その2」では、当時、「山岳地域には鉱脈を見つけ採掘し、精錬する一族」がいて、そういう一族が弘法大師・空海(当時は佐伯 眞魚クン)が遣唐使船に乗って中国に私費留学する際の強力なスポンサーになったのではないか…という大胆な仮説を立てたのですが、その一族というのが讃岐や伊予の佐伯氏族のことだったのかもしれません。一族の今後の命運がかかるようなそんな大金を、一族以外の若者に賭けるとはとても考えられませんからね。となると、讃岐や伊予の佐伯氏とは主として優れた鉱山技術を持った一族だったということになります。

くわえて、私の母方の祖父の生家のあった愛媛県周桑郡丹原町保井野(現・西条市)というところは四国最高峰(関西以西最高峰)の石鎚山の麓にあたり、日本の背骨とも言える大断層帯の中央構造線が東西に走っているところです。愛媛県新居浜市から西条市にかけての中央構造線に沿った三波川変成帯は鉱物資源の宝庫で、「エッ!邪馬台国は四国にあった? (その6)」で述べたように、かつては住友財閥発祥の地として有名な別子銅山(黄銅鉱・鉄)をはじめ、黒瀬鉱山(ニッケル)、佐々連(さざれ)鉱山(金・銀・銅・鉛・亜鉛・硫化鉄)、新宮鉱山(銅・鉄鉱石)、基安(もとやす)鉱山(銅)、愛媛鉱山(銅・亜鉛・磁鉄鉱)、市之川鉱山(アンチモン)、報国鉱山・鞍瀬鉱山(マンガン)、赤石鉱山(クロム)…など多くの鉱山があり、採掘される金属も銅や鉄だけでなく、実に様々なものがあったところです。

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中でも、鞍瀬鉱山(マンガン)が大いに気になります。保井野のあたりを流れている川の名称は鞍瀬川ですから。調べてみると、この鞍瀬鉱山は主にマンガンを採掘していた鉱山ですが、鉱石中に灰バナジン柘榴石の含有が非常に多く、岩石マニアの間では、ザクロ(柘榴)石の産地としてのほうが有名な鉱山のようです。で、このザクロ(柘榴)石、宝石としては一般に「ガーネット」の名前で呼ばれています。1月の誕生石であるガーネットです。このガーネットも菱形十二面体の結晶体の石で、中央構造線が非常にゆっくりと隆起してきたことから生成された石です。さらに調べてみると、保井野や鞍瀬鉱山のすぐ近くの明河という集落には銅鉱石や硫化鉄が採れた明賀鉱山があり、また、保井野に向かう県道が分岐する分岐する国道11号線沿い、桜三里の中山川河岸には千原鉱山があり、黄銅鉱を産出していました。中央構造線沿いのこのあたりには、かつて小さな鉱山が幾つもあったようです。

加えて丹原町という地名。丹原の“丹”とは、まさに“辰砂”、すなわち硫化水銀の結晶体のことです。これも中央構造線が非常にゆっくりと隆起してきたことから生成された石です。もしかすると丹原町保井野でもなにかしらの鉱物資源が採れていたのかもしれません。しかも、「岩戸温泉 つるぎの宿 岩戸」に貼られていた倭国研究会の『日本建国の真実』というポスターでは、「アルツァレト」=「高天原」=「邪馬台国」として示されたところに入っています。

エッ!邪馬台国は四国にあった?(その6)

また、弘法大師・空海の出た讃岐佐伯氏は阿波忌部氏と深い関わりがあるとされていますので、伊予佐伯氏も当時高度な技術を持った技術者集団で、同じ四国山地の山の民であった阿波忌部氏とも深い関わりがあったのではないか…という推測も容易にできます。四国山地の山の尾根線(稜線)伝いに行けば、石鎚山(愛媛県丹原町保井野)と剣山(徳島県神山町)はさほど遠い距離ではありませんから。しかも、前述のように、その道筋は中央構造線に沿った三波川変成帯のほぼ真ん中を貫き、鉱物資源の宝庫と言われているところです。また、堂ヶ森に登らずに、その登山道の途中から南側にあるもう一つの登山口である梅ヶ市登山口に出れば、そこは愛媛県上浮穴郡久万高原町。面河ダムのあるあたりで、そこには国道494号線が通っています。この国道494号線は仁淀川の支流である面河川に沿って南下し、いったん東進した後、今度は同じく仁淀川の支流である土居川に沿って南下すると、高知県吾川郡仁淀川町土居で“あの”国道439号線に合流します。この国道494号線も狭隘な山道、いわゆる“酷道”ですが、沿線には幾つもの小さな集落が点在していることから、国道439号線と同様、かなり古くから存在していた道路ではないかと想像できます。このルートを使えば、保井野と徳島県神山町はわけもなく歩いて行き来することができます。

これまでそれぞれのパーツごとに立ててきた日本の(四国の)古代史に関する私の幾つかの仮説が、今回の徳島旅行によって、どうも一本の線で繋がってきたような感じを受けています。少なくとも私の仮説を論理的に否定するようなものは何一つ見つかっていません。むしろ裏付けるようなものばかりです。

となると、もしかして、もしかして、私の母方の一族は………忌部氏? そして………◯◯◯? そう言えば、祖父も叔父達もどことなく日本人としては“濃い目”の顔立ちをしているような……。特に鼻がいささか大きいのが特徴です (私は越智の血が混じっているので、そこまでではありませんが……)。

両親の家系を遡ると、どうも私は越智氏と佐伯氏、2つの古代氏族の血筋を引くようです。幸い、父方、母方、どちらも古代氏族の名称のまんまの姓(せい)なので、メチャメチャ分かりやすいですね。父方では私は分家の四男坊の長男、まぁ〜その他大勢の中の1人ってところですが、母方では(おそらく)本家筋の長女の長男。そして、母方の祖父にとっては私が最初の孫です。母には弟(私にとっては叔父)が3人いるのですが、その叔父達の子供に男の子がおらず、佐伯の姓は私の従兄弟・従姉妹の代で残念ながら途絶えてしまっているので、こりゃあ初孫として随分と可愛がってもらった私が佐伯家のルーツについて調べ、後世に(せめて孫達に)語り継いでいかないといけないな…と思っています。ここのところ日本の古代史にチョォ〜興味が湧いてきているので、自分のルーツがどうも日本の古代史の片隅に関係してきそうだとなると、なおのことです。

ちなみに、父方の越智氏(越智氏族)に関しては「全国の越智さん大集合!」(その1)〜(その10)&(追記編)を是非お読みください。

全国の越智さん大集合!(その1)
〜(その10)&(追記編)に続く一大長編になっています

明らかに今治市朝倉の土着の農家だった父方の越智家と比べて、母方の佐伯家は山深い秘境に暮らす謎の一族だったようで、好奇心が大いにくすぐられますし…。愛媛県西条市丹原町保井野はまさに秘境で、農地に適した平らで広い土地などはほとんどなく、山あいなので日照時間も短く、農業で生計を立てていたとは到底考えられませんし、かと言って、あんな秘境で大きくて立派な家に住むということはそれなりに収入があったということ。山はそれなりに幾つか所有していたようですが、そのあたりが林業で栄えていたという話は聞いたことがありませんし、その名残りもいっさいありません。そもそもあんな山の中の秘境で、いったい何で生計を立てていた一族なのか…、まずはそのあたりの謎の解明からですね。

母が現在88歳と言うことは、祖父が保井野から新居浜市に移転してきたのは少なくとも約90年前。祖父の生家は、その後、祖父の弟がしばらく住んでいたそうなのですが、その祖父の弟の家も家族揃ってそこから西条市の街のほうに引っ越してきているそうなので、現在はおそらく無人。残っているかどうかも不明です。もし仮に残っていたとしても、廃墟のようになっているのではないか…と思われます (随分と古い家だったそうなのですが、祖父の弟が住みやすいように改造したそうで、県の文化財登録にもならなかったようです)。代もかわって、昔のことを知っている人ももう残っていらっしゃらないでしょうし、その他の手掛かりも随分と希薄になっているでしょうから、なかなか調べがいがありそうです。でも、そこが面白そうです。自らのルーツを探るという立派な大義名分もありますし…。また、鉱物資源が大きく関係してきそうなので、エンジニアとしては大いに興味を惹かれますし。

次回、松山に帰省した折に、レンタカーを借りて再び保井野を訪れてみたいと思っています。今回、徳島を旅していろいろと分かってきたところがあり、保井野に関する私なりの仮説も立っているので、私の中での「保井野の謎」、「佐伯氏(自らのルーツ)の謎」も少しは解き明かせるのではないかと思っています (その際、今も保井野に住んでおられる方にお会いできれば、なおいいのですが…)。その意味で、今回の徳島旅行は私のルーツ探索にとっても大きなキッカケとヒントが得られました。

余談の余談になりますが、徳島県徳島市から高知県四万十市まで、四国山地の山深い山中を四国を東西に横切るように延びる国道439号線(通称“酷道ヨサク”)が大昔の四国の幹線道路だった(投馬国から邪馬台国までの道でもあった)という私の仮説が正しいとするならば、松山市の久米官衙遺跡の謎も少し解けそうな気がしています。久米官衙遺跡の最大の謎は、何故、ここにこのような大規模な古代の役所の跡があるのかということです。

久米官衙遺跡のある松山市久米(来住町及び南久米町)は松山市街の東の端、隣の東温市との境に近いところにあります。そして、松山市を流れる一級河川・重信川が形成した扇状地(道後平野)の扇の要付近にある標高100メートル近い河岸段丘の上に位置しています。現在の松山市の中心地からもちょっと距離があり、瀬戸内海の海岸線からは10km以上も離れています (ちなみに、私の実家もそのすぐ近くにあります)。何故ここに大規模な古代の役所の跡があるのか…ってずっと疑問に思っていたのですが、その答えが保井野から徳島県神山町までの経路を探していて、見つかったような気がしています。

保井野から徳島県神山町までの推定経路でご紹介した国道494号線は愛媛県東温市則之内で国道11号線に合流します。国道11号線の則之内から松山市内の区間は現在はバイパスが開通して、そちらにルートが移っていますが、旧国道11号線(讃岐街道)は主にそのルートの東側を通っていました(現在の愛媛県道334号松山川内線)。この旧国道11号線を松山市内に向かって走り、東温市から松山市に入ってすぐのところに久米官衙遺跡があります。なるほど、国道439号線と国道494号線を使うと、私が邪馬台国の中心地と推定している徳島県神山町と松山市久米の間は容易に陸路で行き来できるってことになります。なので、久米の地に大規模な役所(官衙)が設けられていたのかもしれません。

重信川が河川長が短いわりには急傾斜地を水源としているため高低差がかなりある河川で、度々氾濫に見舞われる“暴れ川”だったようなので、こうした標高の高いところを選んだのではないか…と私は単純に思っていましたが、どうもそれだけではなさそうです。もし仮にこの久米官衙が邪馬台国(大和朝廷?)の支社(Branch Office)だったのだとするならば、これほどの立地のところはありません。まさに『日本史の謎は“地形”で解ける』です。



……(その16)に続きます。