2018/03/27
邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その19)
国道492号線を穴吹町まで戻り、国道192号線を貞光町方向に走って、「道の駅 貞光ゆうゆう館」でちょっと遅い昼食とお土産の購入です。昼食は迷わず地元名物の半田素麺です。
半田素麺(はんだそうめん)とは、徳島県つるぎ町の半田地区(旧半田町)に伝わる素麺のことです。四国三郎と呼ばれる吉野川の豊かな水流を利用した水運が盛んだった江戸時代に、この地の船頭達が奈良の三輪地区から技術を持ち込んで冬場に素麺作りを行うようになったのが始まりとされています。この吉野川のもたらす肥沃な堆積物が小麦を育てるとともに、生産に欠かせない良質な水をもたらし、そこに吉野川と剣山に挟まれた山間に故に吹く寒風と合わさって素麺作りには好条件となっていることも半田で素麺作りが盛んになった要因の一つとされています。
三輪や播州、小豆島などの他の産地では手延べ素麺は1.3mm以下というのが一般的なのですが、半田素麺はそれより0.1~0.3mm太い28番手と呼ばれる太さのものが標準となっていて、一般的な素麺(そうめん)と冷麦(ひやむぎ)との中間ぐらいの独特の太さという特徴で知られています。
その半田素麺を「釜玉ぶっかけ」でいただきました。麺の太さが通常の素麺よりも太いこと、さらには「釜玉ぶっかけ」という食べ方。まるで「饂飩(うどん)」です。考えてみれば、北側に横たわる讃岐山脈を越えればすぐに讃岐国、すなわち、「うどん県」香川です。このあたりに住む人にとっては徳島空港よりも高松空港のほうが距離的に近いくらいで、讃岐の文化が色濃く入り込んできているということなのでしょう。半田素麺の「釜玉ぶっかけ」、美味しかったです。
半田素麺の昼食を終え、次に向かったところは三浦醸造所です。この三浦醸造所は味噌と醤油の醸造を家族だけでやっているという小さな小さな規模の田舎の醸造所です。規模は小さいと言っても、この三浦醸造所、激動の幕末期に入ろうとする嘉永年間の創業です。嘉永年間と言えば今から160年以上前の1848年から1855年までの期間を指します。この時代の天皇は孝明天皇、江戸幕府の将軍は徳川家慶、徳川家定でした。現在のご主人はその三浦醸造所の五代目杜氏(三浦家9代目)。食の安全と美味しさという観点から主要な原材料である大豆の無肥料・無農薬栽培からはじまって、天然醸造無添加の昔ながらの手作りの手法で味噌と醤油を作り続けています。
牧さんとの出会いは阿波木偶箱まわし保存会の中内正子会長。三浦醸造所の奥様と中内正子会長が知り合いで、大豆と麦という味噌と醤油の原材料のうち、良質なハダカ麦を提供してくれる農家がどこかにいないだろうか…と奥様から相談を受けた中内会長が牧さんを紹介したのがきっかけです。それから10年以上、三浦醸造所の味噌と醤油は牧さんが代表を務めるジェイ・ウィングファームで取れたハダカ麦を使用しています。
その三浦醸造所の蔵を見学させていただきました。醤油の絞り機に中古の小豆(アズキ)の絞り機を流用したり、攪拌機にこれまた中古のカレー屋さんの攪拌機を利用したりと様々な工夫を凝らしながらも、主要な作業は昔ながらの完全手作業で行って作る味噌と醤油。素晴らしい!…の一言です。
三浦醸造所HP
流通が今ほど発達していなかった昔は、こうした地元に根付いた醸造所が全国各地にあって、味噌や醤油を作っていたのでしょうね。大変でしょうけど、その日本の伝統を残すため、是非長く続けていっていただきたいものだと思います。応援の気持ちも込めて、看板商品の“ねさし味噌”と醤油をお土産に買って帰りました。自宅で使ってみたのですが、お世辞抜きに美味しかったです。気になる方はネットで購入もできるようですので、三浦醸造所HPからご注文ください。
それにしても、寡黙で働き者のご主人と、明るく元気な奥様、そしてチラっと姿を見せた可愛らしいお嬢さん、本当にいいご家族でした。
その三浦醸造所の裏に気になる家が……。絵本にでも出てきそうな家だと思いませんか?
時刻も15時を過ぎ、最後に向かった先は徳島市国府町にある八倉比賣神社にある「卑弥呼の墓」ではないかとも言われている古墳です。今朝、「岩戸温泉 つるぎの宿 岩戸」でフロントのところに置いてあった地図を眺めてこの日の行動計画をみんなで相談している時に、偶然に私が「卑弥呼の墓」という文字を見つけました。国道192号線を徳島市内に戻る途中にあり、しかも今回の旅の最後を飾るに相応しいところだということで、ここに行くことにしたのでした。
徳島市国府町(こくふちょう)にある八倉比賣神社(やくらひめじんじゃ)です。阿波史跡公園の歴史の森ゾーンに位置しており、古来より杉尾山を神体山とする磐座信仰の神社であるとされています。また、創祀は紀元前に遡るとされる古社であり、元々は気延山の山頂に祀られていたそうです。そして、推古元年(593年)に現在の地に遷座し、江戸時代に奥の院を拝するための拝殿と本殿を造営して現在に至るとされています。「天石門別八倉比賣神社略記」と題された説明版には「式内 正一位」という文字が見えます。正一位(しょういちい)は、位階及び神階の1つで、諸王及び人臣における位階・神社における神階の最高位に位し、従一位の上にあたります。さほど大きな神社であるとは思えませんが、神社の格としたら最高位に位する神社なんですね。ちなみに、正一位の神階の神社としては松尾大社、上賀茂神社、下鴨神社、春日大社、石上神宮、枚岡神社、香取神宮、鹿島神宮、日吉大社…など有名どころの神社が並んでいます。それらと同格の神社というわけですね。徳島の人は慎み深いというか、なにか目立つことがないように意図的に何かを隠しているようにも思えてきます。
なお、境内地に当たる気延山には200余りの古墳群があり、その中でも最も大きな前方後円墳が神社の境内とされています。その前方後円墳の前方部には拝殿・本殿が、後円部に当たる場所には奥の院が築かれ、奥の院には五角形の祭壇に磐座が祀られています。
神社の主祭神である大日靈女命(おおひるめのみこと:八倉比売命とも)は、阿波独特の神話が記された社伝の『天石門別八倉比賣大神御本記』の内容に基づくと天照大神の別名とされています。「ひるめ」の“る”は助詞の“の”の古語で、「日の女」ということになります。意味は太陽に仕える巫女のことで、卑弥呼(陽巫女:ひのみこ)と符合します。そのため、気延山古墳群の宮谷古墳から三角縁神獣鏡:銅鏡の形式の一種で、縁部の断面形状が三角形状となった大型の神獣鏡)が出土したこと、さらには天照大神は卑弥呼のモデルであると言う説とあいまって「奥の院の磐座は卑弥呼の墓である」という説が唱えられているようです。
この八倉比賣神社の由緒は、境内に立てられた神社略記に詳細に記されています。その内容は非常に濃く、かつ、興味深い内容なのでここに転載しておきます。
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当社は鎮座される杉尾山(すぎのおやま)自体を御神体として崇め奉る。
江戸時代に神陵の一部を削り、拝殿本殿を造営、奥の院の神陵を拝する。これは柳田國男(民俗学者)の「山宮考」によるまでもなく、最も古い神社様式である。
奥の院は、海抜116メートルの丘尾切断型(きゅうびせつだんがた)の柄鏡状(えかがみじょう)に前方部が長く伸びた古墳であり、後円部頂上に五角形の祭壇が青石の木口積(こぐちづみ)で築かれている。その青石の祠には、砂岩の鶴石亀石を組み合わせた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴している。
また、杉尾山麓の左右には陪塚(ばいしょう)を従がえており、杉尾山より峯続きの山頂海抜212メートルの気延山(きのべやま)一帯にある200余りの古墳群の中でも最大の古墳となっている。
当社に伝わる古文書『八倉比賣大神御本記(やくらひめおおかみごほんき)』には、天照大神の葬儀執行の詳細な記録があり、先導は伊魔離神(いまりのかみ)、葬儀委員長は大地主神(おおくにぬしのかみ)、木股神(きまたがみ)、松熊(まつくま)二神、神衣を縫った広浜神(ひろはまのかみ)と記載され、八百萬神(やおよろずのかみ)のカグラは「嘘楽」と表記し、葬儀であることを示している。
銅板葺以前の大屋根棟瓦は、一対の龍の浮彫が鮮やかに踊り、水の女神との習合を示していた。古代学者の折口信夫は天照大神を三種に分けて論じ、「阿波における天照大神は、水の女神に属する」として、「最も威力ある神霊」を示唆しているとしたが、これは余りにも知られていない。なお、当社より下付する神符には「火付せ八倉比賣神宮」と明記されている。
鎮座の年代は定かではないが、安永2年(1773年)三月の古文書にある「気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五(2105)年を経ぬ」の記録から逆算すれば、西暦338年となり、4世紀初の古墳発生期にあたる。(越智注:これは計算違いで1773年より2105年前は紀元前332年)
しかも、その伝承時期が安永2年よりも遡ると仮定すれば、鎮座年代はさらに遡ると推測される。
また、当社は正一位杉尾大明神、天石門別 八倉比売神社(あまのいわとわけ やくらひめじんじゃ)などと史書に見えるが、本殿には出雲宿禰千家某(いづものすくねせんげなにがし)の謹書(きんしょ)になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の扁額が秘蔵され、さきの神符と合せて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間違いない。
古代阿波の地形を復元する鳴門市より大きく磯が和田、早渕の辺まで、輪に入りくんだ湾の奥に当社は位置する。そのため、天照大神のイミナを「撞賢木厳御魂天疎日向津比賣(つきさかきいつのみたまあまざかるひうらつひめ)」と申し上げるのも決して偶然ではない。
なお、本殿より西北五丁余に五角の天乃真名井(あめのまない)がある。元文年間(1736~1741年)まで十二段の神饌田(しんせんでん)の泉であった。現在大泉神として祀っている。
当祭神が、日本中の大典であったことは古文書『阿波国徴古雑抄(あわこくちょうこざっしょう)』が証明している。延久2年(1070年)6月28日の太政官符で、八倉比賣神の「祈年月次祭(きねんつきなめさい)は邦国之大典也(ほうこくのたいてんなり)」として奉幣を怠った阿波国司を厳しく叱っているのを見ても、神威の並々でないことが感得され、日本一社矢野神山の実感が迫ってくるのである。
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「奥の院の磐座は卑弥呼の墓である」という説が正しいかどうかは、この八倉比賣神社の神社略記をどう読むかだと思います。神社略記の中程に「これは余りにも知られていない」と自虐的とも思える文章があり、ホント知られていないことだよね…と、思っちゃいました。
八倉比賣神社の本殿の裏に上へ続く石段があります。ここで注目すべきは足元です。石段の登り口あたりは剥き出しになった大きな一枚の岩のように思われます。すなわち、ここより上の部分はどうもヒトが故意に土を盛って造った人工の塚のようです。周囲の形から言ってもこれは「円墳」です。その石段の周囲はいたるところに三木家住宅の前で見た青い“さざれ石”の自然石が積み上げられて、石垣になっています。先ほどヒトが故意に土を盛って造った人工の塚のようだと書きましたが、その石垣の数々から言っても、相当に人の手が加えられたところのように思えます。
『魏志倭人伝』には「卑弥呼以死、大作塚系百余歩。殉葬者奴婢百余人」、すなわち「卑弥呼が死んだ時、倭人は直径百余歩の塚を盛大に作った。奴稗百余人が殉葬された。」という記述があります。「エッ!邪馬台国は四国にあった?(その6)」で、私は“系”のことを“直径”と訳したのですが、これは“周囲”と訳するのが正しいようです。
エッ!邪馬台国は四国にあった?(その6)
“歩(ぶ)”は尺貫法における長さと面積の単位で、長さとしての1歩は本来は6尺。古代中国の周代に制定された単位で、右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足までの長さ(現代日本語でいう「2歩」)を「1歩」とする身体尺でした。周代に定められた当初は約1.35メートルだったのですが、身体が徐々に大きくなっていったためか、その後、1歩の長さは時代によって微妙に異なってきます。秦・漢の時代は約1.38メートル。隋代には約1.77 メートルとなります。その後、唐代には1歩=5尺が採用され、1歩は約1.56メートルとなります。ちなみに、日本の場合は約1.82メートルです。『魏志倭人伝』が編纂されたのは三国時代なので、魏志倭人伝に記述されている1歩は秦・漢の時代の1歩=約1.38メートルだと推察されます。すると、「周囲百余歩の塚」とは「周囲が150~200メートルほどの塚」ということになります。
目の前にある塚(円墳)の周囲はざっと見たところ約150~200メートルと見積もれます。まさに『魏志倭人伝』に書かれているとおりの塚です。
八倉比売神社の奥の院です。神社略記には主祭神の神霊が座す青石の木口積(こぐちづみ)で築かれた五角形の祭壇とされており、その中心にある小さな祠には磐座が祀られています。社伝によれば推古元年(593年)に神体山である杉尾山の山頂より遷座したとされ、一説には卑弥呼の墓ではないかとも言われています。
この祭壇も青い“さざれ石”の自然石が細かく、そして綺麗に積み上げられています。この青い“さざれ石”の石積みがこの空間に非常に厳かな雰囲気を醸し出しています。この青い“さざれ石”、三木家住宅の前に立てられた「菊の御紋」入りの説明板によると、「…太古から鏡・剣などとともに神霊をよりつかせる依代として神事に用いられてきました。古代倭国である阿波においては、皇祖皇宗の神々は陵墓として祀られ、その神霊は魂ふりによって陵墓に鎮められています…」と書かれていました。まさにそういう感じです。また、2004年から2007年まで駐日イスラエル大使を務め、現在アリエル大学学長であるエリ・コーヘンさんによると、古代ユダヤでも自然石を積み上げた石積みの祭殿があり、この祭壇をはじめ八倉比売神社の奥の院全体は古代ユダヤの石積みの祭殿とその構造が非常に良く似ているのだそうです。
八倉比売神社の奥の院の磐座です。由緒書によれば、砂岩の鶴石と亀石を組み合わせた「つるぎ石」とされ、永遠の生命を象徴しているとされています。この「つるぎ石」、よく見ると、なんとなく“男根(男性のシンボル)”を連想させるような形をしています。
ここで今回の5人のメンバーのうちの一人、村上さんに異変が…。村上さんが本殿裏の石段を登りきり、奥の院を見た瞬間、そこで一歩も奥の院に近付けなくなってしまいました。「私、これ以上近付くのは無理! これまで感じたことのないようななにか物凄く強いパワーが奥の院の磐座から上空に向かって放出されているのを感じる」とのこと。スピリチュアル(霊感)が一般の人よりも強い方って極たまにいらっしゃいますが、村上さんもそのお一人のようです。私はスピリチュアル(霊感)のほうはまるでないほうなのですが、それでもここには何か神秘的なものがある…と感じさせられる雰囲気のところですから、いささかでもスピリチュアル(霊感)が一般の人よりも強い方なら一歩も動けなくなってしまうのは分かる気がします。
これが卑弥呼の墓なのかどうかは科学的には何の根拠もないため断定はできませんが、間違いなくここには何かがあります。ちなみに、この八倉比賣神社のあるところは徳島市国府町。ここは昭和42年(1967年)に徳島市と合併するまでは名東郡(みょうどうぐん)国府町でした。国府と言うことは、昔ここに阿波国の国府が置かれていたってことです。すなわち、その昔はここが阿波国の中心地だったってこと。これも気になります。また、徳島市国府町には第14番札所の盛寿山 常楽寺、第15番札所の薬王山 國分寺、第16番札所の光耀山 観音寺、第17番札所の瑠璃山 井戸寺…と「四国霊場八十八箇所巡り」の霊場が4箇所もあります。もともと阿波国の国府が置かれていた場所ではありますが、密度から言ってもちょっと異常と思えるほどで、この4箇所の寺院でなにかを守っているとしか思えません。これも大いに気になるところです。
また、前述のように、今は徳島市となっているから勘違いしそうですが、国府町は徳島市の内陸部の吉野川とその支流である鮎喰川に南北を挟まれた河岸段丘の上に位置し、昭和42年(1967年)に徳島市に編入されるまでは名東郡(みょうどうぐん)国府町でした。その国府町と鮎喰川を挟んで南側に隣接する自治体は名東郡佐那河内村(さなごうちそん)と名西郡(みょうざいぐん)神山町。私が徳島県で最も気になるところとして何度も名前を挙げている「神山町」です。すなわち、この国府町と神山町は距離的にはさほど離れていません。で、名東郡と名西郡は奈良時代から平安時代にかけては 「名方郡(なかたのこおり、なかたぐん)」として一体の郡でした。なので、この徳島市国府町はそこ単独で捉えるのではなく、神山町や佐那河内村などと一体となった「名方郡」として捉えて考える必要があります。地名は昔の(当時の)地名に戻して考える……、これは歴史探究における基礎中の基礎です。その意味で、卑弥呼のものであるとされる墓陵が私が邪馬台国の中心であったと推定している神山町のすぐ近くにあるということは、いったい何を意味しているのでしょうか?
今回の2泊3日の徳島の謎に迫る旅も全ての行程を終え、八倉比賣神社からJR徳島駅に向かいました。この日、東京にお帰りになる岸本さん、大塚さん、村上さんの3名はJR徳島駅からリムジンバスで徳島空港に向かうのでここで降ろし、私は牧さんのクルマに同乗させていただいて愛媛県の松山に向かいました。
今回の旅は「徳島の謎に迫るため剣山に行く(正しくは剣山系の山の中に行く)」ということだけが決まっていて、詳しい行程はその時の流れや雰囲気で臨機応変に決める…という極めてアバウトな計画でした。逆にそれが良かったようです。初日に行った山川町のスナックのトモちゃんママのご紹介で、忌部氏で行者の宮本さんにお会いすることができ、今度はその宮本さんのご紹介で阿波忌部氏直系28代目当主である三木信夫さんと思いがけずお会いすることができました。これで行程の骨格が決まったので、大変に充実した旅になったように思います。この3人の方には感謝感謝です。また、地図で偶然に発見したのですが、最後が卑弥呼の墓(とされている墓陵)というのも旅の締め括りとしては良かったように思います。
いっぱい得るもの感じるものがありました。ありすぎて、ホントお腹いっぱいという感じです。松山に向かうクルマの中でも牧さんと私は今回の旅で得たこと、感じたことをお互いに興奮さめやらず…という感じで語り合いました。おかげで徳島から松山まで高速道路で3時間弱の道程も一気に着いてしまったという印象です。JR徳島駅で降りて徳島空港から東京に戻られた3名の方もきっとそうだったのではないかと推察します。
その興奮を吐き出さないと私の中でこの旅は完結しない…と思い、一気に書いたのがこのブログです。得たもの、感じたものがあまりに多い旅だったので、『おちゃめ日記』としては過去最高の11万8千字を超えるメチャメチャ長文のブログになってしまいました。
この徳島県の剣山系の山の中は本当にミステリアスなところでした。奥深い山の中だけに、謎も奥深いというか……。阿波忌部氏、麻、天皇家との繋がり、古代ユダヤ人、高天原、天岩戸、そして卑弥呼……、今回、私達が見たものはそんな徳島の謎の部分のほんの一端に過ぎず、もちろんこれが全てではないと思っています。神話の世界だった日本の古代史の謎が徐々に解きあかされつつある感じで、逆に邪馬台国だけでなくますます謎が深まった(広がった)という感じです。
ただ、このブログの題名のように、少なくとも私の中では「邪馬台国は四国にあった」という仮説が確信に変わってきました。今回の旅で、「邪馬台国は四国にあった」という仮説を論理的に否定するようなものは何一つも見つかりませんでした。反対に、その仮説が正しいということを裏付けるものやことばかりが見つかった感じがしています。ですが、邪馬台国だけを考えていてはダメなんですね。日本の古代史全体を捉えて、その中で邪馬台国を考えないといけない。徳島にはそれら全てが揃っている感じです。
あとは今回の旅で行けなかった名西郡(みょうざいぐん)神山町ですね。一番初めに書きましたが、国道439号線(ヨサクロード)が通るこの神山町という地名に興味を惹かれたことから、私が徳島県には何か隠された謎があると思い、今回の旅へと繋がったわけです。ですから、神山町だけは次回是非訪れたいと思っています。
今回の徳島の旅で私の知的好奇心のスイッチが“全開”入って、今後さらに調査をしてみたい気もしていますが、何かとんでもない真実がそこに潜んでいるような気もして、正直、怖い感じもしています。歴史に一般に通説として語られている“表の歴史”と、時の権力者によって意図的に隠された“裏の歴史”、すなわち“真実の歴史”があるとするならば、この徳島には日本の古代史の“裏の歴史”が隠されているように思います。それをこれ以上探っていいものかどうか……。しかし、これもインターネットがここまで普及したことも関係しているからでしょうが、多くの人が情報発信をすることで、その謎の解明が徐々に進んでいっているようにも思います。特に、徳島とはそういうところのようです。
以上、信じるか信じないかは、あなた次第です!!
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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