2018/03/30
邪馬台国は四国にあった…が確信に!(番外編)
今年(2018年)の初詣、我が家は年が明けて世の中が新年気分から醒めかけた1月14日(日)にちょっとクルマで遠出して、意外なところに詣でてきました。それが房総半島の先端、千葉県館山市にある安房神社です。
妻が看護師として勤務する保育園の元同僚(先輩)で、定年退職後、温暖な千葉県館山市に家を建てて移住なさったMさんから「久し振りに会いたいから遊びにおいでよ」ってお誘いを受けていたので訪問したのです。実はそのお宅の猫ちゃんはウチの娘が小学校の帰りに拾ってきた生まれたばかりの仔猫で、しばらく我が家では飼っていたのですが、当時、我が家では既に1匹、ピッケという先輩猫を飼っていたので、そのお宅にお願いして貰ってもらったのです。真っ白い中にコーヒー牛乳のような淡くて綺麗な茶色の毛並みをした可愛い雌猫だったことから、娘が名付けた名前が「ミルク」。子供がいらっしゃらないそのお宅のご夫婦は猫や犬を飼うのは初めてでしたが、そのミルクちゃんを我が子のようにそれこそ“ねこっ可愛がり”で可愛がっていただいています。そのミルクちゃんも19歳。人間に喩えるならばゆうに100歳を超えるお婆ちゃん猫になり、最近は腎臓がいささか悪くなっているようで、週に2回は点滴を打ちに動物病院に連れて行っているとのこと。 まだ元気なうちにミルクちゃんに逢いたいということもありました。
そしてなにより千葉県館山市と言うと「安房神社」です。ここまで「邪馬台国は四国にあった…が確信に!」の一連のシリーズをお読みいただいた方ならピンッ!と来られた方もいらっしゃるかと思いますが、房総半島の南端部分の安房国は、四国の徳島(阿波)から天富命(あまのとみのみこと)に率いられた阿波忌部氏の一団が黒潮に乗って海路大挙して移住してきたところです。その移住してきた阿波忌部氏が創建した神社が安房忌部神社、現在の安房神社というわけです。
邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その4)
11月の徳島旅行で阿波忌部氏の末裔で行者の宮本さんから、昔、阿波忌部氏が大挙して千葉県の房総半島に移住して、房総半島をはじめとして関東一円を開拓したという話、さらにはその房総半島の南端にも忌部氏所縁の忌部神社(安房神社)があるという話を伺っていたので、安房神社にはいつか行ってみたいと思っていました。それがこんなに早く行ける機会が訪れるとは…。妻から一緒に行かない?…と誘われた時、二つ返事で「もちろん行く!」と答えちゃいました。
埼玉県さいたま市の我が家から房総半島の南端の千葉県館山市に行くには首都高5号線から中央環状線(山手トンネル)、首都高湾岸線、東京湾アクアライン、東京湾アクアライン連絡道、館山自動車道を使うと距離にして約130km、途中大きな渋滞さえなければ2時間ちょっとの時間で行くことができます。
朝早く、埼玉県さいたま市の自宅を出発。首都高5号線も中央環状線、湾岸線、東京湾アクアラインも順調に流れていて、出発から1時間弱で「海ほたるパーキングエリア」に到着しました。この東京湾に浮かぶ人工島に建設された東京湾アクアラインのパーキングエリア、私は大好きなところなのです。とにかく展望デッキからの眺めは最高! 東京湾に浮かぶ人工島なので、周囲は360度の海〜ぃ!! 北側にはメトロポリス東京に建ち並ぶ巨大なビル群が見え、西側遠景には富士山。東側には千葉の工場群。海面には東京港を出入りする大型船舶が何隻も航行し、上空には羽田空港に離着陸する飛行機がひっきりなしに飛び交います。飛び交うと言えば、カモメも。さらには、この「海ほたるパーキングエリア」から千葉県の木更津までの東京湾アクアラインの橋の部分には東京と房総半島の各地を結ぶ高速バスが何台も走っています。この日は天気も良く、景色は抜群です。いつまで眺めていても見飽きません。特に私のような乗り物マニアにとっては…。
で、「海ほたるパーキングエリア」と言えば「アサリ」。東京湾アクアラインの千葉県側の終点である千葉県木更津市近郊の東京湾の浅瀬は古くからアサリの有力な漁場で、「海ほたるパーキングエリア」でもそのアサリを使った料理が堪能できます。中でも私のイチオシはフードコートで食べられるアサリ丼と、アサリがたっぷり入った味噌汁(貝汁)。朝ご飯を食べずにここまでクルマを走らせてきたのも、全てはこれが食べたいからでした。まさにアサリ三昧。東京湾名物のアサリを堪能させていただきました。
「海ほたるパーキングエリア」でアサリ三昧に大満足した後は房総半島の南端の館山市目指して東京湾アクアライン連絡道、続いて館山自動車道を走ります。この日はクルマの量も少なく、快適なドライブです。「海ほたるパーキングエリア」に随分とゆっくり滞在したわりには館山自動車道の終点である富浦出口を出たのは11時過ぎ。Mさんと約束した時刻よりも随分早く館山市内に入ることができたので、館山付近で少し観光することにしました。「どこ行く?」と妻と娘に聞くと、2人はクチを揃えて「もちろん、お花とイチゴよねぇ〜!」。はいはい。まぁ〜、花とイチゴはこの時期の南房総の定番ですわね。
房総半島のすぐ南の太平洋には暖流である黒潮が流れており、その影響による温暖な気候を活かし、全国有数の花の産地として知られています。そのため春の訪れがひと足早く、春の花も11月の下旬頃から次々に咲き始めます。最初に訪れたのは南房総市にある千葉県道185号犬掛館山線沿いの「道の駅おおつの里 花倶楽部」。建ち並ぶ大きな温室の中では赤、桃、紫、青、淡黄、白色など色とりどりのストックやポピーが満開でした。むせぶような芳香が漂っています。この日は陽射しも強く、温室の中は春を通り越して初夏に近く、冬装備の格好では汗ばんできます。「道の駅おおつの里 花倶楽部」では既に芽の出た大輪種のチューリップの球根を5個購入。自宅の玄関脇のプランターに植えることにしました。
次に訪れたのは「とよふさいちご園(館山観光いちご狩りセンター)」。温暖な房総半島の南端あたりでは、例年1月の初めから5月のGWあたりまでイチゴ摘みが出来ます。国道410号線沿いには「いちご狩り」の幟が何本もはためき、テンションが徐々に高まっていきます。「とよふさいちご園(館山観光いちご狩りセンター)」は例年正月明けからイチゴ狩りを始めるのですが、今年は気温が低い日が続き、例年より少し遅れて1月10日からイチゴ摘みを始めたのだそうです。この日は1月14日。開業してすぐってことです。開業して間もないということで、この日は観光バスも来ておらず、訪れている観光客の姿もまばらです。温室(ハウス)の中に入ると真っ赤なイチゴがたくさん実っています。それもデッカイ! しかも甘くて美味しい!! 館山でのイチゴ狩りは1月上旬~中旬のこの時期がいいようですね。来年は2人の孫も連れて館山にイチゴ狩りに来ようと思います。
この日は海ほたるパーキングエリアでの遅い朝食だったこともあり、デザート感覚でのイチゴ狩りだったのですが、あまりに甘くて美味しいのでついつい食べ過ぎちゃいました。30分食べ放題だったのですが、幾つでも食べれちゃう…って感じで、もうイチゴだけでお腹いっぱいになっちゃいました(ほとんどが水分ですが…)。なので、この日の昼食は抜きです!(笑)
イチゴ狩りの後はMさんのお宅を訪問して、久々にミルクちゃんとの対面です。19歳となり、人間に喩えるならばゆうに100歳を超えるお婆ちゃん猫。最近は腎臓がいささか悪くなっているようで、週に2回は点滴を打ちに動物病院に連れて行っているとのことだったので心配していたのですが、年齢のわりには元気そうでした。我が家も以前は2匹の猫を飼っていたのですが、1匹は9歳で、もう1匹も一昨年に18歳で亡くなり、今は飼っていません。我が家に関係した最後の1匹ということで、思い入れがあります。元気なうちに会えてよかったです。
妻とMさんの奥さんが昔話や保育園の近況などをひとしきり話した後、私がMさんの奥さんに聞きました。「このあたりの(館山市)大神宮というところに安房神社という神社があるはずなのですが、ここから遠いですか?」 すると奥さんから返ってきた答えは「安房神社ならここから歩いて15分くらいのところですよ。私の散歩コースですから、行かれるのなら散歩がてら一緒に行きましょうか」というものでした。なんと…!(◎_◎;)
ということで、阿波忌部氏ゆかりの安房神社に行くことになりました。畑が続く田舎道を歩くこと15分ちょっと。突然大きな石でできた鳥居が見えてきました。
安房神社です。安房神社は、千葉県館山市大神宮にある神社で、安房国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社です。千葉県南部、房総半島最南端部の吾谷山(あづちやま)の山麓に鎮座する神社で、伝承によると、神話の時代に阿波地方(現在の徳島県)から渡ってきた忌部氏(斎部氏)により創建されたものだそうです。「安房(あわ)」の国名、社名はこの阿波忌部氏の移住・開拓から起こったといわれています。
古代の安房国はアワビの貢進地として朝廷から重要視され、安房国の中心的神社である安房神社もまた古くより重要視されたようです。特に、全国でも数少ない神郡(郡全体を特定神社の所領・神域と定めた郡)が設置された点や、出雲国造、紀伊国造と並びこの安房国の安房国造が律令制下でも古代大和朝廷の祭祀を担った点、および宮中の大膳職にも「御食津神」として祀られていた点が特筆されています。ちなみに、忌部氏は古代大和朝廷の祭祀を始めとして祭具作製・宮殿造営を担った氏族とされていて、出雲国・紀伊国・阿波(安房)国・讃岐国が忌部氏の代表的な4大勢力だったことを「邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その3)」で書かせていただきました。出雲国、紀伊国と並びこの安房国の国造が律令制下でも古代大和朝廷の祭祀を担ったということは、まさに忌部氏族だったということなのでしょう。また、当時全国には8つの神郡があったのですが、それはこの安房国安房郡のほか伊勢国度会郡、伊勢国多気郡、下総国香取郡、常陸国鹿島郡、出雲国意宇郡、紀伊国名草郡、筑前国宗像郡の計8郡(八神郡)。このうち、安房(阿波)、紀伊、出雲は忌部氏の勢力の強いところ。加えて、九州の筑紫国と伊勢国もそれぞれ筑紫忌部氏・伊勢忌部氏がいて、忌部氏の勢力が強いところでした。下総国と常陸国はもしかしたら安房(阿波)忌部氏が開拓していったところなのかもしれません。
邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その3)
「一の鳥居」を潜り、境内に進んでいきます。社伝によると、安房神社の創建は神代の時代に遡り、神武天皇元年に忌部氏の祖神とされる天太玉命(あめのふとだまのみこと)の孫の天富命(あめのとみのみこと)が阿波忌部氏の半分を率いて四国の阿波地方(現在の徳島県)から黒潮に乗って房総半島の南端のこの地に上陸し、当地を開拓した後に布良浜の男神山・女神山に祖神である天太玉命とその后神である天比理刀咩命(あめのひりとめのみこと)を祀ったとされており、これをもって神社の創祀としています。その後、養老元年(西暦717年)に吾谷山(あづちやま)山麓の現在地に遷座し、その際に天富命・天忍日命が「下の宮」に祀られたとされています。さすがに、中世以降、安房国の一宮に位置づけられ、明治維新後も近代社格制度で最高位の官幣大社に位置づけられたように、長い歴史を通じて人々の崇敬を集めてきた古社です。落ち着きと品があります。関東地方にあるここまでの古社でありながら、さほど有名ではないのは、房総半島の南端という地理的な理由からかと思われます。地元在住のMさんによると、初詣には相当の数の参拝客が訪れ、大賑わいになるそうなのですが、年が明けて2週間が経過し、この日はもうすっかり落ち着きを取り戻しているのだそうです。
二の鳥居です。
おっ! ここに安房神社の由緒書きが建っています。
そこには以下のような記述が…。
……(前略)。安房開拓の神として当社の下の宮の祀らるる天富命は、天太玉命の御孫にあたらせられる。天富命は四国の阿波国忌部族の一部を割いて関東地方に大移動を起こし、最初に占拠されたのが房総半島の南端、すなわち現在の安房神社の鎮座地であって、ここに本拠を定めて祖神天太玉命の社を立てた後、次第に内地の方に進み、この半島に麻・穀を播殖し、その産業地域を拡められたのである。(後略)……
しっかり書いてありますね。四国の徳島県から阿波忌部氏の一団が移住してきた…と。なるほどなるほど。
本殿です。現在の本殿は、明治14年(1881年)に造営されたものです。間口三間・奥行二間の神明造で、屋根は檜皮葺。平成21年(2009年)に大修造が実施されています。本殿前に建てられている拝殿は、昭和52年(1977年)に造営されたもので、鉄筋コンクリートによる神明造。また本殿の北側には、主に置炭神事で使用される神饌所が建っています。
この安房神社の主祭神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)。「邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その3)」で書かせていただきましたように忌部氏(斎部氏)の祖神です。共に祀られている神は天太玉命の后神である天比理刀咩命(あめのひりとめのみこと)、さらには忌部五部神。この忌部五部神とは、櫛明玉命(くしあかるたまのみこと:出雲忌部の祖)、天日鷲命(あめのひわしのみこと:阿波忌部の祖)、彦狭知命(ひこさしりのみこと:紀伊忌部の祖)、手置帆負命(たおきほおいのみこと:讃岐忌部の祖)、天目一箇命(あめのまひとつのみこと:筑紫忌部・伊勢忌部の祖)という5人の神様のことです。もしかすると、天富命は阿波忌部氏だけでなく、出雲忌部氏や紀伊忌部氏といった他の地域に住む忌部氏族も呼び寄せて、房総半島、さらには関東地方を開拓していったのかもしれません。このように、安房神社は、もろに忌部氏が創建した忌部氏のための神社ってことのようですね。
ここに琴平社があります。
琴平社とは金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)、すなわち金刀比羅宮(ことひらぐう)のこと。金刀比羅宮は、通称「こんぴらさん」と呼ばれて親しまれている四国の香川県仲多度郡琴平町にある象頭山の中腹に鎮座する神社のことです。この香川県琴平町にある金刀比羅神社は全国に約600社ある金刀比羅神社の総本宮で、主祭神は金毘羅権現(こんぴらごんげん)です。そう言えば、徳島市の忌部神社にも金刀比羅神社がありました。
邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その3)
金刀比羅神社(琴平神社)の主祭神の金毘羅権現は象頭山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神で、大物主(おおものぬし:三輪大明神)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、金山彦(かなやまひこのかみ)などの説があったのですが現在は大物主ということになっています。しかし、琴平神社の別当寺である象頭山松尾寺の縁起によると、大宝年間(西暦701年〜704年)に修験道の開祖とされる役小角(えんのおづの:役行者とも)が象頭山に登った際に、護法善神金毘羅(宮比羅、クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の由来であるとの伝承が残っています。クンビーラとは、元来ガンジス川に棲むワニ(鰐)を神格化した水神のことです。また、クンビーラはガンジス川を司る女神ガンガーのヴァーハナ(乗り物)でもあったことから、金毘羅権現は海上交通の守り神として長らく信仰されてきました。特に舟乗り達から深く信仰され、一般に大きな港を見下ろす山の上には金毘羅宮、金毘羅権現社が全国各地に建てられ、金毘羅権現が祀られてきました。おそらく、四国徳島から黒潮に乗ってこの房総半島の南端の地に無事に辿り着くことができた忌部氏族の方々が、航海の無事に感謝してここに金毘羅権現を祀ったのではないでしょうか。こういうところにも四国との繋がりを感じます。
ちなみに、『古事記』によると、大物主は、大国主(おおくにぬし)神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから突然現れた光り輝く神様のことで、蛇の姿をした神であり、水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めています。まさにクンビーラそのものって感じですね。
うっかりして写真を撮影するのを忘れてしまいましたが、安房神社にはこの琴平社のほかにももう一つ境内末社があり、それが厳島社。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。神社名からもお分かりいただけるように、ここは日本三景の1つで、UNESCOの世界文化遺産にも登録されている広島の宮島にある厳島神社の境外末社です。祭神の市杵島姫命は『古事記』や『日本書紀』によると、天眞名井(あめのまない)で行った誓約の際に天照大御神(あまてらすおおみかみ)が素戔嗚尊(すさのおのみこと)の剣(十拳剣)を噛んで吹き出した霧から生まれた五男三女神の三女神のうちの1人の神です。市杵島姫命に多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)、多岐都比売命(たひつひめのみこと)を加えたこの三女神は宗像三女神と呼ばれ、古くから海上・交通安全の神として信仰されてきました。琴平社に祀られている大物主もそうですが、やはり房総半島の南端付近では、海上交通の神ってことですね。
摂社(下の宮)には「房総開拓の祖」の祭神として、天富命(あめのとみのみこと)が祀られています。この下の宮、安房神社の社伝によると、養老元年(西暦717年)の創建となっていることから、随分と古くある神社です。
安房神社の裏手には「忌部塚」があります。正式な名称は「安房神社洞窟遺跡」。昭和7年(1932年)の井戸掘削工事の際に地下約1メートルで見つかった海食洞窟の遺跡で、洞窟の大きさは推定全長22メートル以上、幅3.5メートル。発掘調査により人骨22体、貝製の腕輪193個、石製の丸玉3個、縄文土器などが出土しました。この洞窟は昭和42年(1967年)に千葉県指定史跡に指定されたのですが、現在は埋め戻されています。
出土した人骨22体のうちでは、15体に抜歯の習俗が見られることが注目されています。また、洞窟からは弥生式の土器が発見されたとも言われています。出土した22体の人骨は安房神社祭祀に関係する一族、すなわち、四国の阿波から天富命に率いられ黒潮に乗ってこの地に移住してきた阿波忌部氏のものと推定する説もあるようで、これにより安房神社の創祀を弥生時代に遡ると推定する説もあります。現在、人骨の一部は出土した「安房神社洞窟遺跡」のすぐ近く、二の鳥居前の階段の手前を東に道なりに行った先の宮ノ谷に埋葬されたうえで、忌部氏に仮託して「忌部塚」と銘されて祀られています。
忌部塚の説明書きによると、「毎年7月10日には報恩崇祖の誠を捧げる忌部塚祭が執り行われている」と書かれていますので、多分、徳島県吉野川市山川町の高越山の“行者”宮本さんも、時々この忌部塚祭に参加なさっているのだと思います。こういうところにも、四国阿波(徳島県)と安房(千葉県)の繋がりを感じます。
邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その4)
安房神社の次に訪れたのは「布良崎(めらさき)神社」。吾谷山の山麓にある安房神社から海岸線に出たところにあります。目の前の相模湾越しに富士山の姿が霞んで見えます。
この布良崎神社は天富命に率いられた阿波忌部氏の一団が四国の阿波から黒潮に乗ってこの地に上陸した場所だとされています。由緒書きによると、主祭神として祀られているのは天富命。後に須佐之男尊と金山彦命を合祀し、安房神社の前殿(下社)となっているようです。旧社格は郷社ですが、なかなか立派な神社です。
また、由緒書きによると、「御祭神天富命は5世紀、神武天皇の勅命を奉じて沃土を東方に求むべく天太玉命の御霊と四国の忌部氏を率いて紀伊半島・伊豆半島を経由し、この房総の地、布良の駒ヶ崎に上陸した。祖神、天太玉命を男神山(安房神社御祭神)に安置し、后神、天比理刀咩命を女神山(洲宮神社御祭神)に安置し、暫次開拓の歩を進められ北上し、特に麻・穀の播殖を奨励し、製錬技術に優れ建築並びに漁業の技術を指導され、衣食住の神として崇敬される。安房神社を一旦は布良の神谷に鎮座し、此処を出発地点として現在の安房神社(吾谷山)に西暦717年に鎮座し、祖神、天太玉命を祀る」と書かれています。今年(2018年)は皇紀2678年なので、「5世紀、神武天皇の勅命を奉じて…」というのが気になるところですが、これを“紀元前5世紀”の誤りだとするならば、辻褄は合います。また、安房神社の忌部塚に祀られている22体の人骨の年代とも辻褄が合います。ここが元々の安房忌部神社ってことなんですね。なるほどぉ〜。
布良崎神社の社殿に立つと、二の鳥居、一の鳥居という2つの鳥居を結んだ直線上、ちょうど二の鳥居、一の鳥居の間に相模湾越しの富士山の姿が見えます。この日は天気もよく、その姿がしっかりと拝めました(下の写真ではちょっと確認しがたいでしょうが…)。神社の向きや鳥居の位置など、しっかりと計算され尽くして建てられた神社だということが分かります。
また、この地は相模湾を挟んで対岸は伊豆半島、三浦半島、そして伊豆大島となり、海に夕陽が沈む日は1年に僅か1日か2日です。この布良崎神社にある新岩座の峰から海の方角を眺めた時、その僅かに途切れた海の部分との一直線上に夕陽が沈む日が2月3日の節分祭の日なのだそうです。さらに、霊峰富士、岩座、新岩座、一の鳥居、二の鳥居のそれぞれが夕陽と重なる時がすべて暦になっているのだそうで、そこからこの布良崎神社は知る人ぞ知る聖地と言われているのだそうです。
その岩座と新岩座です。
夫侍視台(ふじみだい:富士見台)です。この布良は鮪(マグロ)延縄漁(はえなわりょう)の発祥の地なのだそうです。明治20年代はこの地がマグロの水揚げ日本一のところだったそうです。水揚げ高は今の貨幣価値に換算すると約25億円くらいだったそうです。当時は八丁櫨の船が約200隻もいたそうです。この目の前の海には鬼ヶ瀬(布良瀨)という大きな瀬があり、浅場の水深は二間(約3.6メートル)程度。波や渦が変則的に発生するところで、海藻にとっては光合成が良く、大きく育つところでした。稚魚が隠れるには最適な場所で、その稚魚を狙って大きな魚も集まるところでした。その反面、大きな瀬は大きな波も作り出します。一晩で百名を超える漁師の命が奪われることもあり、この村は後家村とまで呼ばれたこともあったようです。この夫侍視台は、村の女性達が漁に出た夫や恋人達の無事な帰港を海を眺めながら待った丘なのだそうです。
冬の日は短く、相模湾を挟んだ対岸に霊峰富士山の姿が夕焼けをバックにしたシルエットで見えます。素晴らしい光景です。Mさんご夫婦が定年を期に埼玉県からこの千葉県館山市に移住してきた理由が分かる気がします。
帰りはMさんご夫婦のお薦めもあり、館山市にある「南総城山温泉 里見の湯」という日帰り温泉入浴施設でゆったり、のんびりしました。そう言えば、館山は、江戸時代後期に曲亭馬琴(滝沢馬琴)によって著わされた大長編読本「南総里見八犬伝」の舞台となった地としても知られています。仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌ですか…、いいですね。
温泉にゆったりと浸かり、金目鯛の煮付けをはじめとした南房総で獲れた海の幸を堪能した後、東京湾アクアラインを通ってさいたま市の自宅に戻りました。帰りは遅い時間になったこともあり渋滞もまったくなく、約2時間のノンストップの快適なドライブで23時過ぎには自宅に帰り着きました。猫のミルクちゃんの関係で突然思い立っての館山行きでしたが、行ってよかったです。忌部氏の謎の一端に触れることができました。日本史も世界史もそうですが、一般的に歴史を語る時、強い武力を持った者たちによる他国への侵略や支配を中心に語られることがほとんどなのですが、そればかりが歴史ではありません。阿波忌部氏の東遷のように高度な技術を持った集団の移住とそれによる開拓、技術伝搬というようなものが同時にあったわけで、それらも含めて論じないと本当の歴史とは言えません。特に日本の古代史においては。それを強く感想として思った今回の館山行きでした。
【追記】
私の母方の佐伯氏の謎の究明についても大きな進展がありました。「邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その15)」では、母方の佐伯氏は愛媛県西条市の保井野という山の中の集落で鉱物資源を掘っていた一族だったのではないか…という大胆な仮説を私は立てたのですが、どうもそうではなかったようです。
このブログの原稿を松山市に住む母に送ったところ、母が独自に母の妹達や従弟達に電話をかけ、いろいろと調べてくれたようです。その結果、どうも佐伯家は保井野で和紙の製造をやっていた一族であったらしいことが分かりました。茅葺きの大きな家だったという祖父の生家は10年ちょっと前に取り壊され、今は更地になっているのだそうですが、その取り壊しに立ち会ったという母の従弟(祖父の弟の長男)と連絡が取れ、いろいろと聞いたようです。それによると、茅葺きの大きな家と言ってもその建物の内部の半分は土間。すなわち作業場で、その土間にはデッカイ竈門(かまど)の跡や水場の跡がいくつもあったそうです。さらに風呂桶よりも大きな湯桶もいくつか残されていたのだそうです。広い土間の作業場にデッカイ竈門と水場の跡、それにデッカイ湯桶。こうなるともう間違いないですね。和紙製造です。保井野では鉱物資源を掘っていた人もいたとは思われますが、少なくとも私の母方の佐伯家は、古くから和紙を製造していた一族だったようです。
今も佐伯家がいくつも持っているあのあたりの山は和紙の原材料であるコウゾ(楮)やミツマタ(三椏)を栽培するための山。そこで採れたコウゾやミツマタを原材料として和紙を漉き、それを売って現金収入を稼いでいたということのようです。今は平成の大合併により西条市の一部になっていますが、かつて周桑郡一帯は良質な手漉き和紙の産地でした。それも奉書紙と呼ばれる高級な和紙の。今でも西条市内で7軒の業者が手漉き和紙の生産を行っていて、その「周桑手漉き和紙」は愛媛県指定伝統的特産品及び西条市指定伝統的特産品に指定されています。なるほどなるほど、あの石鎚山への登山口の1つである標高約800メートルもの深い山の中に暮らし、確実な現金収入を得て、母がビックリするくらい大きな家に住んでいた…というのも、手漉き和紙の製造を行っていたのだとすると、大いに納得です。逆に、コウゾ(楮)やミツマタ(三椏)の栽培なんて、そういう標高の高いところでないとできないことですし。
で、明治期に入り機械化された西洋紙が普及してくると手漉き和紙の需要が激減してきたので、祖父は家業であった和紙生産の継続に早々に見切りをつけ、使用人の皆さんとともに山を下りて新居浜市の住友別子銅山に勤めたということのようです。そしてそこで母が産まれたということです。なるほどなるほど。
手漉き和紙の製造に関しても「邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その7)」で書かせていただきました。手漉き和紙の製造も麻布の製造と同様に相当に高度な技術を要するもので、そこに古代技術者集団「阿波忌部氏」の影響が少なからずあったのではないか…ということは否定できません。というか、母方の祖父の家系である佐伯家そのものが阿波忌部氏の末端の一族であったのかもしれません。なので、調査はさらに継続するつもりです。
佐伯家の謎なんてことを書いて母に怒られるかな…とも思ったのですが、母からは「あんたが妙なことに興味を持ってもらったおかげで、従弟達に何十年ぶりかで電話ができ、懐かしい声が聞けたので嬉しかったわね」って逆に喜ばれちゃいました。88歳になったとは言え、こういう時、母のフットワークは思いのほか軽いです。さすがは私の母です。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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