2018/05/22
中山道六十九次・街道歩き【第19回: 贄川→宮ノ越】 (その5)
木々の間から見える山々の景色が素晴らしいです。ここまで登ってきてさすがにちょっと疲れてきましたが、この美しい山の景色を見ると、その疲れも幾分和らぎます。
次の薮原宿の特産品である「お六櫛」の原木ミネバリの植栽林地の表示が出ています。
そこからさらに30メートルほど先にあったのは「明治天皇駐蹕所跡碑」。明治11年の明治天皇の北陸東海御巡幸の際の休憩所の跡です。
旧中山道は、この先から藪の中に分け入る細い道になっているのですが、その先はほとんど消滅状態。なので、ここは安全を取って階段を下り旧国道19号線に合流します。国道と合流したらすぐ左の「明治の道」に入り、すぐに旧中山道に戻ります。
ここでちょっと気になることが…。動物の糞があちこちに見られるのです。こんな山道で犬の散歩などあるわけがありません。とすると、イノシシ? 鹿? それとも熊? 碓氷峠や和田峠、塩尻峠でも「熊に注意」の看板を見掛けました。熊の糞でしょうか? 比較的新しいもののようなので、時間的に極々直近に“した”ものと思われます。マジかよ……。
実は今から40年前の学生時代、奈良井宿を訪れた際、地元の人の勧めもあって奈良井宿から権兵衛峠を越えて伊那に抜けたのですが、その途中で熊に遭遇したことがあります。ガサガサと音がしたので、音がする方を見ると、体長1メートルほどのツキノワグマが1頭、峠道から一段下がった山の斜面を餌を探しているのかのっそりと歩いていました。距離にして30メートルほどでしょうか。その時はビックリして思わず近くの木に登り、熊が遠くに行きすぎるのを待ちました。後で考えると、熊は木登りが得意なので、木に登って避難するというのは得策ではなかったのですが、その時はそんなことを考える余裕もなく、取り敢えず傍にあった木に登ったわけです。その後も権兵衛峠を越えて伊那に出るまでにニホンカモシカや猿、イノシシにも遭遇しました。このあたりの山々はそういう野生の生き物の宝庫のようです。そういうことを思い出したりもしました。
明治の道に入ると、「熊避けの鐘」があり、これをガーンを盛大に鳴らしてから下りていきます。説明書には「熊も人が怖いのです。鐘で知らせてあげよう」と書かれています。やっぱりこのあたりには熊がいっぱい棲息しているのですね。12月に入って、もうすぐ冬眠に入る頃ではないでしょうか。鐘を鳴らすと冬眠前のお食事の邪魔をすることになるのではないか…と心配になります。
ちなみに「熊除けの鐘」はこの先にも何箇所も設けられています。そのくらいいっぱい熊が棲息しているということなのでしょう。
木々の間からチラッと見えた白い雪を被ったあの山はもしかして……。
数分歩くと「子産の栃」なる大木があります。昔、この大木の穴に捨て子があったのだが、村人が育て幸福になったことから、この木の実を煎じて飲むと子宝に恵まれる、と言い伝えられてきたのだそうです。
ちょっと先に「天然記念物 鳥居峠のトチノキ群」と刻まれた石碑が建てられています。この辺りはトチ(栃)の木の多く、「鳥居峠のトチノキ群」として木祖村の天然記念物に指定されています。
「木曽のとち 浮世の人の みやげ哉」
これは松尾芭蕉が鳥居峠のトチの群落を見て詠んだ句で、「更科紀行」に収められています。今もトチの大木が狭い峠道を覆うように枝葉を広げています。トチの実は熊の好物です。ということは、ここは熊の食料庫。熊が多いはずです。
ここにも「熊除けの鐘」があります。盛大に鳴らして先を進みます。先ほど見掛けた糞の状態からすると、絶対にこのあたりにいるはずですから。
そこから数分歩くと道が二手に分かれます。真っ直ぐ延びているのが中山道ですが、右に曲がると石段と「御嶽神社鳥居」があり、その奥に御嶽神社が鎮座しています。ここが御嶽山遥拝所です。
木曽側から上ってくると、最初に御嶽山が見える場所がここであることから、木曽義元が戦勝祈願の鳥居を建てて御嶽神社を祭ったのでしょう。ちなみに「鳥居峠」の名称は木曽義元によりここにこの鳥居が建てられたのでこう呼ばれるようになったのだそうです。現在の鳥居は明治8年に再建されたものです。
ここが一般的には鳥居峠の頂きとされています。鳥居峠は中山道の奈良井宿と藪原を結ぶ峠です。標高は1,197メートル。古くは吉蘇路(きそじ)の「県坂(あがたざか)」、中世には「ならい坂」「薮原峠」とも呼ばれました。木曽谷地方の信濃国編入以前は、ここと境峠(長野県道26号奈川木祖線)が信濃国と美濃国の国境で、国境に位置しているので、中世には戦いが何度も行われました。特に、織田信長による甲州征伐においては織田方の木曾義昌(木曾氏は武田信玄の死後、武田勝頼に反旗を翻して織田信長につきます)と武田勝頼の戦いがこの鳥居峠で行われ、織田方の木曾義昌は地の利を得た戦術と織田信忠の援軍を得て武田軍を撃退しました。その戦いで命を落とした武田方の兵士500人を埋葬したという「葬沢」なる沢もここまで登ってくる途中にありました。その木曾義元が木曽御嶽山に戦勝祈願のため、峠に御嶽山遥拝所を設け鳥居を奉納したことから鳥居峠と呼ばれるようになったといわれています。
また、鳥居峠は峠の東側を北に向かって流れる奈良井川(日本海側河川)と、西側を南に向かって流れる木曽川(太平洋側河川)との中央分水嶺になっています。
中山道六十九次・街道歩きの旅ではこれまで幾つもの大きな峠を越えてきました。碓氷峠、和田峠、塩尻峠、そしてこれから越える鳥居峠です。どの峠も標高が1,000メートルを越えるところを越えるため、道幅の狭い急傾斜の坂道の連続で難所と言われるところでした。中でも中山道最大の難所と呼ばれた碓氷峠と和田峠、ここはどちらも街道歩きというよりも、ほとんど登山に近い山道歩きでした。それでも、昔は、それも僅か150年ほど前まではこの道が日本の主要な幹線道路だったわけで、そこを歩いてみると、昔の人の苦労が十分に偲ばれます。
ここまでの中山道街道歩きの旅は、詰まるところ峠越えの旅でした。そして峠越えは分水嶺を越える旅でもありました。
① 碓氷峠は東側は太平洋に注ぐ利根川水系(↓)の碓氷川と日本海に注ぐ信濃川水系(↑)の千曲川との分水嶺。
② 続く和田峠の北側は千曲川を経て日本海に注ぐ信濃川水系(↑)で、南側は諏訪湖を経て太平洋に注ぐ天竜川水系(↓)という分水嶺。
③ 前回越えた塩尻峠は、東側が諏訪湖を経て太平洋に注ぐ天竜川水系(↓)で、西側は奈良井川を経て日本海に注ぐ信濃川水系(↑)という分水嶺。
④ そして鳥居峠は東側が奈良井川を経て日本海に注ぐ信濃川水系(↑)で、西側が太平洋に向かって流れる木曽川水系(↓)という分水嶺です。
ちなみに、上記の(↓)(↑)は、(↓)は太平洋に向かって基本南方向に流れる河川、(↑)は日本海に向かって基本北方向に流れる河川を表します。
私がここで改めて言うほどのことでもありませんが、水は高いところから低いところへと流れます。したがって雨が山の稜線のどちら側に降るかによって流れ込む川が変わり、注ぐ海が変わってきます。異なる水系の境界線を指す地理用語として「分水界」があるのですが、山岳においては稜線(谷と谷に挟まれた山地の一番高い部分の連なりのこと。尾根筋とも言います)とこの分水界が一致していることが多く、一般的に「分水嶺」と呼ばれています。その中でも日本列島の太平洋側と日本海側とを分かつ分水界のことを「中央分水界(中央分水嶺)」と呼びます。
また、律令制に基づいておかれた令制国の境の多くが分水界となっています。国土の7割以上が山岳地帯という我が国では、山々が連なる稜線(尾根筋)を国境(くにざかい)とすることが多いことから当然といえば当然のことではあるのですが、尾根を境に気候や木々の植生が変わり、それに伴って人々の生活・文化も微妙に変わるところもあるので、これは合理的な分割法ということもできました。
峠越えの楽しみの1つに、その分水界(分水嶺)をこの目で確かめるというものがあります。ましてや中山道が通っているのは日本列島の背骨とでも言う部分。日本列島の太平洋側と日本海側とを分かつ中央分水嶺の部分です。峠を越えるたびに河川の流れる方向が変わるのはもちろんのこと、気候の変化も感じましたし、生活・文化の変化も感じることができました。特に建物。江戸時代初期に一斉に整備された中山道の宿場ですのでどの宿場の建物も旅籠建築等似ているところも多いのですが、前回の【第18回】の松本平で幾つも見掛けた“雀オドリ”のようにところどころにその地域その地域の特色が盛り込まれたものがあったりして、興味深いものがあります。食べ物もそうですね。前回ご紹介した木曽谷の伝統的な漬物である「すんき漬け」がいっさい塩を使わない日本でおそらく唯一の漬物であるということ等、何故こういう料理がこの地域の伝統料理なのか…、これは峠を越えて歩いてみないとなかなか実感として湧きません。
繰り返しになりますが、ここまでの中山道街道歩きの旅は、詰まるところ峠越えの旅でした。峠を越えるたびに変わる景色と文化、それを味わう楽しさを学ばせてくれた旅だったように思います。その峠越え、それも日本列島の太平洋側と日本海側とを分かつ中央分水嶺を越えるような大きな峠越えは、中山道では次の鳥居峠が最後です。もちろん、島崎藤村の『夜明け前』の冒頭に書かれているように、木曽路は「東ざかいの桜沢から、西ざかいの十曲峠」まで続き、中山道は、この先、妻籠から馬篭に向かう馬篭峠(標高801メートル)、馬篭から落合に向かう十曲峠(つづらおれとうげ:標高500メートル)という2つの峠を越えて美濃国に入ってゆかねばなりません。ですが、標高1,000メートルを越えるような高い峠はこの鳥居峠が最後です。さすがに感慨深いものがありますね。トンネル開通等で徐々に消えゆく峠越え。皆さんも一度経験なさってはいかがでしょう。一度やると間違いなくハマりますよ。
そうそう、中山道六十九次と言いますが、69の半分は34.5。34番目の宿場の奈良井宿と35番目の宿場の薮原宿のちょうど中間が34.5で、そこにこの鳥居峠があり、鳥居峠を超えることで、宿場としてはちょうど半分を過ぎたことになります。随分と遠くまで歩いてきた感じがしていますが、やっと半分、まだまだ半分ってところです。ただ、前述のようにここから先は高い峠を越えることもなく、標高も低くなっていくので、ここまでの“前半”とは中山道の雰囲気もガラッと変わってくるのでしょうね。
この日は快晴で、神社裏に回ると山並みの向こうに雪をかぶった「木曽御嶽山」がちょこっと顔を覗かしているのが見えます。先ほど木々の間からチラッと顔を覗かせていた山は、やはり木曽御嶽山でした。
木曽御嶽山(おんたけさん)は、東日本火山帯の西端に位置する標高3,067メートルの複合成層火山です。大きな裾野を広げる独立峰で、いくつもの峰を連ねて聳える活火山です。この標高3,067メートルというのは日本の山の標高順では第14位の山であり、火山としては富士山に次いで2番目に標高が高い山です。平成26年(2014年)9月27日に7年ぶりに噴火し、火口付近に居合わせた登山者ら58名が死亡。1991年雲仙普賢岳の火砕流による犠牲者数を上回り、日本における戦後最悪の火山災害となったことは記憶に新しいところです。
木曽御嶽山は古くから信仰の山として信者の畏敬を集めてきた巨峰です。また、民謡の木曽節では「木曽の御嶽夏でも寒い袷やりたや足袋添えて」、伊那節では「わしが心と御嶽山の胸の氷は 胸の氷はいつとける」と歌われており、神聖な信仰の山であるとともに木曽を代表する山として地元の人々から親しまれてきました。鳥居峠からはこの信仰の山である木曽御嶽山を望むことができるため、遥拝所が設けられています。このあたりにはたくさんの石碑や石仏が残っています。
渓斎英泉が描いた浮世絵『木曾街道六十九次』の「薮原」に描かれているのは鳥居峠。遠くに見える山は間違いなく木曽御嶽山なので、この御嶽神社を描いたものですね。中山道では鳥居峠のサミット(頂上)付近のこの御嶽神社のあたりからでしか木曽御嶽山は見えませんから。(浮世絵の写真は贄川関所資料館で展示されていた“模写品”を撮影したものです)
ここからは藪原宿に向かって下りになります。
「中山道」と書かれた小さな道標が立っています。
御岳神社から九十九折(つづら折れ)になったU字カーブが連続する坂道を下っていきます。両側を鬱蒼と薮に覆われた先に視界が開けるとちょっとした広場に着きます。ここには御岳手洗水鉢が置かれ、約500メートル離れた峠山から引いてきた湧水がなみなみと注がれていました。前面に御岳と彫られたこの水鉢は文化元年(1804年)に作られたものだそうです。
街道に戻り急な坂を下ると、すぐに道は3本に分かれます。中山道はさらに左の道を下るのですが、真ん中の道の先は丸山公園になります。その丸山公園に「義仲硯水」の旧跡があります。昔、木曽義仲が平家追討のため旗揚げして、北国へ攻め上がる時に、鳥居峠の頂上で、この水を使って硯で墨をすり、戦勝祈願の願書をしたため、御嶽山に奉納したと伝えられています。
丸山公園には多数の石塔・石仏が祀られています。
「鳥居峠古戦場の碑」です。
その中に松尾芭蕉の句碑があります。
「木曽の栃 うき世の人の 土産かな」
松尾芭蕉の句碑のほかにも、様々な歌碑が立てられています。
義仲の硯水の左側を奥に入っていく細い道があります。この奥にあるのが森林測候所の跡地です。森林測候所という聞き慣れない施設について興味が湧いたので調べてみました。
森林測候所とは「明治43年の大水害」を契機に農商務省の山林局所管で設置された気象観測所のことです。ちなみに、農商務省の所管分野は農業・林業・水産業・商工業といった諸産業で、大正14年(1925年)に、農林省(現:農林水産省)と商工省(現:経済産業省)に分割されました。
「明治43年の大水害」とは、明治43年(1910年)8月に東日本の1府15県を襲った大水害のことです。明治43年8月5日頃から降り続いた梅雨前線による雨に、11日に日本列島に接近し房総半島をかすめ太平洋上へ抜けた台風と、さらに14日に沼津付近に上陸し甲府から群馬県西部を通過した台風とが重なり、関東各地に集中豪雨をもたらしました。この集中豪雨により利根川、荒川、多摩川水系の広範囲にわたって河川が氾濫し、各地で堤防が決壊。関東地方における被害は、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に及びました。最も被害の大きかった群馬県の死者は283人、行方不明27人、家屋全壊流出1,249戸に上り、群馬県など利根川左岸や下流域のほか、天明3年(1783年)に起きた浅間山大噴火後に徹底強化した右岸側においても堤が決壊したため、氾濫流は埼玉県を縦断して東京府にまで達し、関東平野一面が文字通り水浸しになってしまったのだそうです。
前述のように、この災害は東日本の1府15県に及ぶ大水害であったことから,時の政府は臨時治水会を設け、根本的な治水対策を講ずることにし、その治水会での研究審議の結果、当時の金で2億円の経費を要する治水計画を建てて、翌明治44年度から18年間にわたる継続事業を実施することにしました。この治水事業の内容は大別すると次の2つになります。①全国主要河川20を選び、それを改修築すること、②その水源地帯の治山(治水対策としての林業経営) 。このうち前者を内務省,後者を農商務省が引き受けることになりました。この農商務省が引き受けた②その水源地帯の治山(治水対策としての林業経営) の一環として設置されたのが森林測候所です。
当時、我が国の気象観測は、その発達の沿革上当然ながら観測施設が海岸地方に偏り、河川の上流地帯にはほとんど設置されていませんでした。そのため山岳地帯や森林地帯の気象の状態を知る手段が乏しい状況でした。そこで、主要河川の上流及び中流地域の適当なところに測候所(気象観測所)を建設し、その地域の気象状況(特に降雨の状況)を知ることが求められたのです。それで生まれたのが森林測候所です。森林測候所は全国で41箇所に設けられました。その1つがこの鳥居峠にある木祖森林測候所です。前述のように鳥居峠は分水嶺にあたり、東は下流域で日本最長の大河・信濃川となる奈良井川の源流、西は岐阜市を経て長野市に流れる木曽川の源流にあたり、治水のための測候所を設置するには最適のロケーションだったのだと思われます。この木祖森林測候所がいつ廃止になったのかまでは調べきれませんでした。
公園から中山道に戻り、この先は「つづら折りの下り坂」を一気に下っていきます。
左手眼下に次の薮原宿の街並みが見えます。かなり下ってきました。
気持ちのいい林間の道を緩やかに下っていきます。
ここからも森林測候所跡へ行く道があります。案内表示が出ているのと、道幅の広さから、義仲の硯水の横からの道よりこちらの道のほうが森林測候所へ行くメインの道だったと推定されます。
九十九折(つづらおり)になった坂道を気持ちよくドンドン下っていきます。ここはその名も「九十九坂(つづらざか)」と言うらしいです。
小さな供養塔が立っています。ここで行き倒れた方でもいらっしゃったのでしょうか?
所々に熊除けの鐘が立っているので、それをカーン! カーン!と盛大に鳴らしながら下っていきます。
しばらく下ると旧国道19号線を横切るのですが、その先から再び「石畳道」が造られています。
石畳の道が途切れると原町稲荷神社の赤く小さな社があります。
「信濃路自然歩道中山道ルート」の案内板と中山道の道標が立っています。ここで石畳の道も終って、舗装道路へ出ます。
数分歩くと先ほど横切った旧国道19号線に合流します。 林の中を抜け、原町の集落に入っていきます。鳥居峠越えの峠道もこれで終わりです。
ここにも 「散策中に熊などの動物を見かけることがあります」 と記された看板が立っています。しかし、ここまで下ると民家も近いのでもう安心です。まもなく薮原宿に入ります。
……(その6)に続きます。
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次の薮原宿の特産品である「お六櫛」の原木ミネバリの植栽林地の表示が出ています。
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そこからさらに30メートルほど先にあったのは「明治天皇駐蹕所跡碑」。明治11年の明治天皇の北陸東海御巡幸の際の休憩所の跡です。
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旧中山道は、この先から藪の中に分け入る細い道になっているのですが、その先はほとんど消滅状態。なので、ここは安全を取って階段を下り旧国道19号線に合流します。国道と合流したらすぐ左の「明治の道」に入り、すぐに旧中山道に戻ります。
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ここでちょっと気になることが…。動物の糞があちこちに見られるのです。こんな山道で犬の散歩などあるわけがありません。とすると、イノシシ? 鹿? それとも熊? 碓氷峠や和田峠、塩尻峠でも「熊に注意」の看板を見掛けました。熊の糞でしょうか? 比較的新しいもののようなので、時間的に極々直近に“した”ものと思われます。マジかよ……。
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実は今から40年前の学生時代、奈良井宿を訪れた際、地元の人の勧めもあって奈良井宿から権兵衛峠を越えて伊那に抜けたのですが、その途中で熊に遭遇したことがあります。ガサガサと音がしたので、音がする方を見ると、体長1メートルほどのツキノワグマが1頭、峠道から一段下がった山の斜面を餌を探しているのかのっそりと歩いていました。距離にして30メートルほどでしょうか。その時はビックリして思わず近くの木に登り、熊が遠くに行きすぎるのを待ちました。後で考えると、熊は木登りが得意なので、木に登って避難するというのは得策ではなかったのですが、その時はそんなことを考える余裕もなく、取り敢えず傍にあった木に登ったわけです。その後も権兵衛峠を越えて伊那に出るまでにニホンカモシカや猿、イノシシにも遭遇しました。このあたりの山々はそういう野生の生き物の宝庫のようです。そういうことを思い出したりもしました。
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明治の道に入ると、「熊避けの鐘」があり、これをガーンを盛大に鳴らしてから下りていきます。説明書には「熊も人が怖いのです。鐘で知らせてあげよう」と書かれています。やっぱりこのあたりには熊がいっぱい棲息しているのですね。12月に入って、もうすぐ冬眠に入る頃ではないでしょうか。鐘を鳴らすと冬眠前のお食事の邪魔をすることになるのではないか…と心配になります。
ちなみに「熊除けの鐘」はこの先にも何箇所も設けられています。そのくらいいっぱい熊が棲息しているということなのでしょう。
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木々の間からチラッと見えた白い雪を被ったあの山はもしかして……。
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数分歩くと「子産の栃」なる大木があります。昔、この大木の穴に捨て子があったのだが、村人が育て幸福になったことから、この木の実を煎じて飲むと子宝に恵まれる、と言い伝えられてきたのだそうです。
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ちょっと先に「天然記念物 鳥居峠のトチノキ群」と刻まれた石碑が建てられています。この辺りはトチ(栃)の木の多く、「鳥居峠のトチノキ群」として木祖村の天然記念物に指定されています。
「木曽のとち 浮世の人の みやげ哉」
これは松尾芭蕉が鳥居峠のトチの群落を見て詠んだ句で、「更科紀行」に収められています。今もトチの大木が狭い峠道を覆うように枝葉を広げています。トチの実は熊の好物です。ということは、ここは熊の食料庫。熊が多いはずです。
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ここにも「熊除けの鐘」があります。盛大に鳴らして先を進みます。先ほど見掛けた糞の状態からすると、絶対にこのあたりにいるはずですから。
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そこから数分歩くと道が二手に分かれます。真っ直ぐ延びているのが中山道ですが、右に曲がると石段と「御嶽神社鳥居」があり、その奥に御嶽神社が鎮座しています。ここが御嶽山遥拝所です。
木曽側から上ってくると、最初に御嶽山が見える場所がここであることから、木曽義元が戦勝祈願の鳥居を建てて御嶽神社を祭ったのでしょう。ちなみに「鳥居峠」の名称は木曽義元によりここにこの鳥居が建てられたのでこう呼ばれるようになったのだそうです。現在の鳥居は明治8年に再建されたものです。
ここが一般的には鳥居峠の頂きとされています。鳥居峠は中山道の奈良井宿と藪原を結ぶ峠です。標高は1,197メートル。古くは吉蘇路(きそじ)の「県坂(あがたざか)」、中世には「ならい坂」「薮原峠」とも呼ばれました。木曽谷地方の信濃国編入以前は、ここと境峠(長野県道26号奈川木祖線)が信濃国と美濃国の国境で、国境に位置しているので、中世には戦いが何度も行われました。特に、織田信長による甲州征伐においては織田方の木曾義昌(木曾氏は武田信玄の死後、武田勝頼に反旗を翻して織田信長につきます)と武田勝頼の戦いがこの鳥居峠で行われ、織田方の木曾義昌は地の利を得た戦術と織田信忠の援軍を得て武田軍を撃退しました。その戦いで命を落とした武田方の兵士500人を埋葬したという「葬沢」なる沢もここまで登ってくる途中にありました。その木曾義元が木曽御嶽山に戦勝祈願のため、峠に御嶽山遥拝所を設け鳥居を奉納したことから鳥居峠と呼ばれるようになったといわれています。
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また、鳥居峠は峠の東側を北に向かって流れる奈良井川(日本海側河川)と、西側を南に向かって流れる木曽川(太平洋側河川)との中央分水嶺になっています。
中山道六十九次・街道歩きの旅ではこれまで幾つもの大きな峠を越えてきました。碓氷峠、和田峠、塩尻峠、そしてこれから越える鳥居峠です。どの峠も標高が1,000メートルを越えるところを越えるため、道幅の狭い急傾斜の坂道の連続で難所と言われるところでした。中でも中山道最大の難所と呼ばれた碓氷峠と和田峠、ここはどちらも街道歩きというよりも、ほとんど登山に近い山道歩きでした。それでも、昔は、それも僅か150年ほど前まではこの道が日本の主要な幹線道路だったわけで、そこを歩いてみると、昔の人の苦労が十分に偲ばれます。
ここまでの中山道街道歩きの旅は、詰まるところ峠越えの旅でした。そして峠越えは分水嶺を越える旅でもありました。
① 碓氷峠は東側は太平洋に注ぐ利根川水系(↓)の碓氷川と日本海に注ぐ信濃川水系(↑)の千曲川との分水嶺。
② 続く和田峠の北側は千曲川を経て日本海に注ぐ信濃川水系(↑)で、南側は諏訪湖を経て太平洋に注ぐ天竜川水系(↓)という分水嶺。
③ 前回越えた塩尻峠は、東側が諏訪湖を経て太平洋に注ぐ天竜川水系(↓)で、西側は奈良井川を経て日本海に注ぐ信濃川水系(↑)という分水嶺。
④ そして鳥居峠は東側が奈良井川を経て日本海に注ぐ信濃川水系(↑)で、西側が太平洋に向かって流れる木曽川水系(↓)という分水嶺です。
ちなみに、上記の(↓)(↑)は、(↓)は太平洋に向かって基本南方向に流れる河川、(↑)は日本海に向かって基本北方向に流れる河川を表します。
私がここで改めて言うほどのことでもありませんが、水は高いところから低いところへと流れます。したがって雨が山の稜線のどちら側に降るかによって流れ込む川が変わり、注ぐ海が変わってきます。異なる水系の境界線を指す地理用語として「分水界」があるのですが、山岳においては稜線(谷と谷に挟まれた山地の一番高い部分の連なりのこと。尾根筋とも言います)とこの分水界が一致していることが多く、一般的に「分水嶺」と呼ばれています。その中でも日本列島の太平洋側と日本海側とを分かつ分水界のことを「中央分水界(中央分水嶺)」と呼びます。
また、律令制に基づいておかれた令制国の境の多くが分水界となっています。国土の7割以上が山岳地帯という我が国では、山々が連なる稜線(尾根筋)を国境(くにざかい)とすることが多いことから当然といえば当然のことではあるのですが、尾根を境に気候や木々の植生が変わり、それに伴って人々の生活・文化も微妙に変わるところもあるので、これは合理的な分割法ということもできました。
峠越えの楽しみの1つに、その分水界(分水嶺)をこの目で確かめるというものがあります。ましてや中山道が通っているのは日本列島の背骨とでも言う部分。日本列島の太平洋側と日本海側とを分かつ中央分水嶺の部分です。峠を越えるたびに河川の流れる方向が変わるのはもちろんのこと、気候の変化も感じましたし、生活・文化の変化も感じることができました。特に建物。江戸時代初期に一斉に整備された中山道の宿場ですのでどの宿場の建物も旅籠建築等似ているところも多いのですが、前回の【第18回】の松本平で幾つも見掛けた“雀オドリ”のようにところどころにその地域その地域の特色が盛り込まれたものがあったりして、興味深いものがあります。食べ物もそうですね。前回ご紹介した木曽谷の伝統的な漬物である「すんき漬け」がいっさい塩を使わない日本でおそらく唯一の漬物であるということ等、何故こういう料理がこの地域の伝統料理なのか…、これは峠を越えて歩いてみないとなかなか実感として湧きません。
繰り返しになりますが、ここまでの中山道街道歩きの旅は、詰まるところ峠越えの旅でした。峠を越えるたびに変わる景色と文化、それを味わう楽しさを学ばせてくれた旅だったように思います。その峠越え、それも日本列島の太平洋側と日本海側とを分かつ中央分水嶺を越えるような大きな峠越えは、中山道では次の鳥居峠が最後です。もちろん、島崎藤村の『夜明け前』の冒頭に書かれているように、木曽路は「東ざかいの桜沢から、西ざかいの十曲峠」まで続き、中山道は、この先、妻籠から馬篭に向かう馬篭峠(標高801メートル)、馬篭から落合に向かう十曲峠(つづらおれとうげ:標高500メートル)という2つの峠を越えて美濃国に入ってゆかねばなりません。ですが、標高1,000メートルを越えるような高い峠はこの鳥居峠が最後です。さすがに感慨深いものがありますね。トンネル開通等で徐々に消えゆく峠越え。皆さんも一度経験なさってはいかがでしょう。一度やると間違いなくハマりますよ。
そうそう、中山道六十九次と言いますが、69の半分は34.5。34番目の宿場の奈良井宿と35番目の宿場の薮原宿のちょうど中間が34.5で、そこにこの鳥居峠があり、鳥居峠を超えることで、宿場としてはちょうど半分を過ぎたことになります。随分と遠くまで歩いてきた感じがしていますが、やっと半分、まだまだ半分ってところです。ただ、前述のようにここから先は高い峠を越えることもなく、標高も低くなっていくので、ここまでの“前半”とは中山道の雰囲気もガラッと変わってくるのでしょうね。
この日は快晴で、神社裏に回ると山並みの向こうに雪をかぶった「木曽御嶽山」がちょこっと顔を覗かしているのが見えます。先ほど木々の間からチラッと顔を覗かせていた山は、やはり木曽御嶽山でした。
木曽御嶽山(おんたけさん)は、東日本火山帯の西端に位置する標高3,067メートルの複合成層火山です。大きな裾野を広げる独立峰で、いくつもの峰を連ねて聳える活火山です。この標高3,067メートルというのは日本の山の標高順では第14位の山であり、火山としては富士山に次いで2番目に標高が高い山です。平成26年(2014年)9月27日に7年ぶりに噴火し、火口付近に居合わせた登山者ら58名が死亡。1991年雲仙普賢岳の火砕流による犠牲者数を上回り、日本における戦後最悪の火山災害となったことは記憶に新しいところです。
木曽御嶽山は古くから信仰の山として信者の畏敬を集めてきた巨峰です。また、民謡の木曽節では「木曽の御嶽夏でも寒い袷やりたや足袋添えて」、伊那節では「わしが心と御嶽山の胸の氷は 胸の氷はいつとける」と歌われており、神聖な信仰の山であるとともに木曽を代表する山として地元の人々から親しまれてきました。鳥居峠からはこの信仰の山である木曽御嶽山を望むことができるため、遥拝所が設けられています。このあたりにはたくさんの石碑や石仏が残っています。
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渓斎英泉が描いた浮世絵『木曾街道六十九次』の「薮原」に描かれているのは鳥居峠。遠くに見える山は間違いなく木曽御嶽山なので、この御嶽神社を描いたものですね。中山道では鳥居峠のサミット(頂上)付近のこの御嶽神社のあたりからでしか木曽御嶽山は見えませんから。(浮世絵の写真は贄川関所資料館で展示されていた“模写品”を撮影したものです)
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ここからは藪原宿に向かって下りになります。
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「中山道」と書かれた小さな道標が立っています。
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御岳神社から九十九折(つづら折れ)になったU字カーブが連続する坂道を下っていきます。両側を鬱蒼と薮に覆われた先に視界が開けるとちょっとした広場に着きます。ここには御岳手洗水鉢が置かれ、約500メートル離れた峠山から引いてきた湧水がなみなみと注がれていました。前面に御岳と彫られたこの水鉢は文化元年(1804年)に作られたものだそうです。
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街道に戻り急な坂を下ると、すぐに道は3本に分かれます。中山道はさらに左の道を下るのですが、真ん中の道の先は丸山公園になります。その丸山公園に「義仲硯水」の旧跡があります。昔、木曽義仲が平家追討のため旗揚げして、北国へ攻め上がる時に、鳥居峠の頂上で、この水を使って硯で墨をすり、戦勝祈願の願書をしたため、御嶽山に奉納したと伝えられています。
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丸山公園には多数の石塔・石仏が祀られています。
「鳥居峠古戦場の碑」です。
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その中に松尾芭蕉の句碑があります。
「木曽の栃 うき世の人の 土産かな」
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松尾芭蕉の句碑のほかにも、様々な歌碑が立てられています。
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義仲の硯水の左側を奥に入っていく細い道があります。この奥にあるのが森林測候所の跡地です。森林測候所という聞き慣れない施設について興味が湧いたので調べてみました。
森林測候所とは「明治43年の大水害」を契機に農商務省の山林局所管で設置された気象観測所のことです。ちなみに、農商務省の所管分野は農業・林業・水産業・商工業といった諸産業で、大正14年(1925年)に、農林省(現:農林水産省)と商工省(現:経済産業省)に分割されました。
「明治43年の大水害」とは、明治43年(1910年)8月に東日本の1府15県を襲った大水害のことです。明治43年8月5日頃から降り続いた梅雨前線による雨に、11日に日本列島に接近し房総半島をかすめ太平洋上へ抜けた台風と、さらに14日に沼津付近に上陸し甲府から群馬県西部を通過した台風とが重なり、関東各地に集中豪雨をもたらしました。この集中豪雨により利根川、荒川、多摩川水系の広範囲にわたって河川が氾濫し、各地で堤防が決壊。関東地方における被害は、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に及びました。最も被害の大きかった群馬県の死者は283人、行方不明27人、家屋全壊流出1,249戸に上り、群馬県など利根川左岸や下流域のほか、天明3年(1783年)に起きた浅間山大噴火後に徹底強化した右岸側においても堤が決壊したため、氾濫流は埼玉県を縦断して東京府にまで達し、関東平野一面が文字通り水浸しになってしまったのだそうです。
前述のように、この災害は東日本の1府15県に及ぶ大水害であったことから,時の政府は臨時治水会を設け、根本的な治水対策を講ずることにし、その治水会での研究審議の結果、当時の金で2億円の経費を要する治水計画を建てて、翌明治44年度から18年間にわたる継続事業を実施することにしました。この治水事業の内容は大別すると次の2つになります。①全国主要河川20を選び、それを改修築すること、②その水源地帯の治山(治水対策としての林業経営) 。このうち前者を内務省,後者を農商務省が引き受けることになりました。この農商務省が引き受けた②その水源地帯の治山(治水対策としての林業経営) の一環として設置されたのが森林測候所です。
当時、我が国の気象観測は、その発達の沿革上当然ながら観測施設が海岸地方に偏り、河川の上流地帯にはほとんど設置されていませんでした。そのため山岳地帯や森林地帯の気象の状態を知る手段が乏しい状況でした。そこで、主要河川の上流及び中流地域の適当なところに測候所(気象観測所)を建設し、その地域の気象状況(特に降雨の状況)を知ることが求められたのです。それで生まれたのが森林測候所です。森林測候所は全国で41箇所に設けられました。その1つがこの鳥居峠にある木祖森林測候所です。前述のように鳥居峠は分水嶺にあたり、東は下流域で日本最長の大河・信濃川となる奈良井川の源流、西は岐阜市を経て長野市に流れる木曽川の源流にあたり、治水のための測候所を設置するには最適のロケーションだったのだと思われます。この木祖森林測候所がいつ廃止になったのかまでは調べきれませんでした。
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公園から中山道に戻り、この先は「つづら折りの下り坂」を一気に下っていきます。
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左手眼下に次の薮原宿の街並みが見えます。かなり下ってきました。
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気持ちのいい林間の道を緩やかに下っていきます。
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ここからも森林測候所跡へ行く道があります。案内表示が出ているのと、道幅の広さから、義仲の硯水の横からの道よりこちらの道のほうが森林測候所へ行くメインの道だったと推定されます。
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九十九折(つづらおり)になった坂道を気持ちよくドンドン下っていきます。ここはその名も「九十九坂(つづらざか)」と言うらしいです。
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小さな供養塔が立っています。ここで行き倒れた方でもいらっしゃったのでしょうか?
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所々に熊除けの鐘が立っているので、それをカーン! カーン!と盛大に鳴らしながら下っていきます。
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しばらく下ると旧国道19号線を横切るのですが、その先から再び「石畳道」が造られています。
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石畳の道が途切れると原町稲荷神社の赤く小さな社があります。
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「信濃路自然歩道中山道ルート」の案内板と中山道の道標が立っています。ここで石畳の道も終って、舗装道路へ出ます。
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数分歩くと先ほど横切った旧国道19号線に合流します。 林の中を抜け、原町の集落に入っていきます。鳥居峠越えの峠道もこれで終わりです。
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ここにも 「散策中に熊などの動物を見かけることがあります」 と記された看板が立っています。しかし、ここまで下ると民家も近いのでもう安心です。まもなく薮原宿に入ります。
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……(その6)に続きます。
執筆者
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株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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