2018/05/25
中山道六十九次・街道歩き【第19回: 贄川→宮ノ越】 (その6)
ここから薮原宿へ入っていきます。
藪原宿(やぶはらじゅく)は中山道で江戸の日本橋から数えて35番目の宿場です。中山道の難所であった鳥居峠を控えた麓の宿として、また高山へ向かう飛騨街道(奈川道)の追分の宿でもあったため、飛騨から野麦峠を越えてやって来る女工たちが休息する場所でもありました。さらにはお六櫛の生産地としても栄えた宿場町でした。薮原宿は木曽川源流の地です。現在の「木祖村」の地名は、木曽の「祖(おや)」という意味で名付けられました。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によると、藪原宿の宿内家数は266軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒で宿内人口は1,493人だったそうです。しかし、明治期の大火で町並みの大半を焼失し、近年は建物の改修が進んだこと などから往時の面影は一部に残っているだけになっています。
集落の間の緩い坂道を下ってくる途中で、松本平地方に多く見られる“雀オドリ”の原型とも言われる「棟飾り」を付けた家があります。神社の屋根の鰹木にも似ていますが、このようなスッキリとしたデザインもいいものです。
「天降社(てんこうしゃ)」です。この神社は薮原神社例大祭(薮原まつり)の上獅子屋台の出発の場所でもあり、伊勢の両大神宮と関わりが深いことから、地元では「大神宮様(だいじんぐうさま)」とも呼ばれています。この天降社の境内の一角に樹高約14メートル、幹の周囲2.45メートル、枝張り約10メートルの「オオモミジ」と呼ばれるカエデ(楓)の大樹があります。この神社の森は、古来「大神宮の森」と称され、カエデ(楓)の老木が植生し、街道筋にあるため有名であったといわれています。枝張りから推察するに紅葉真っ盛りの時期はさぞや見事だろうと思われますが、残念ながらこの日は既に12月に入り、葉は全て落葉しちゃってました。
もう少し下ると「原町清水」と言われる水場があり、傍らに水神様が祀られています。古くから鳥居峠を越える旅人の喉を潤してきた清水ですが、今でも飲み水として使用されているのだそうです。
原町の集落の家並みの中を緩い下り坂で下っていきます。
さらに坂道を下り、JR中央本線の手前のT字路で右の坂道を上がると「尾州御鷹匠役所跡」があり、標柱が建てられています。尾州御鷹匠役所とは尾張藩の鷹の巣山の管理、鷹の飼育、調教を行う役所のことです。尾張藩御鷹匠役所は初め妻籠宿にあったのですが、伊那川にあった鷹の飼育場も統合して、享保15年(1730年)にここ薮原宿に移されました。毎年5、6月になると尾張藩の鷹匠方の役人が名古屋から出張してきて、鷹の巣を見つけ、付近で捕獲した鷹の雛の飼育や調教、鷹の公儀献上、巣山(御巣鷹山と呼ばれています)の管理及び巡視等を木曽代官の山村家の家臣や土地の人々の協力を得て行っていました。厳しい自然環境の中に棲みつき育ったここの鷹は優秀で、生まれた幼鷹とともに鷹狩りを好む尾張藩主をはじめ将軍家に人気があったと言われています。この役所は明治4年(1871年)に廃止されるまで存続しましたが、土地の人々からは「おたかじょ」と呼ばれて親しまれていました。眼下に薮原宿、木曽川源流、中央本線(西線)が一望できます。現在は、一般の方の住居として使われています。
ここで疑問に思われる人がいらっしゃるかと思います。何故、ここが尾張藩なのか?…と。木曽の薮原宿の周辺は元々は幕府直轄の天領でしたが、徳川家康の九男で尾張藩の初代藩主であった徳川義直が結婚した際、結婚祝いとして徳川家康からこの地を与えられ、以降、尾張藩が飛び地の領地として管理していました。
尾州御鷹匠役所跡のY字路から少し下ると「飛騨街道(奈川道)」との追分となります。「飛騨街道追分」と記された標柱が建てられています。そのまま直進すると中山道で西方向へ下る細い坂道が飛騨街道です。飛騨街道は野麦峠を越えて飛騨高山へ通じる道筋で、甚だ険岨で馬の往来も厳しい程の険しい道のりだったと説明版には書かれています。今も旧飛騨街道(奈川道)が少しだけ残っています。明治44年(1911年)に中央本線が開通すると、飛騨地方から岡谷の製糸工場へ向かう女工達がこの道を通ったと言われています。ここから分岐して伸びるこの細い道が飛騨街道(奈川道)です。
旧中山道はJR中央本線(西線)の線路に遮られて分断されています。ここから見ると、中山道が線路によって分断されている様子がよく分かります。
仕方がないので、この追分のところからほんのちょっとだけ飛騨街道(奈川道)に入ります。水神と津嶋神社の石塔が立っているところが旧街道らしいところです。
すぐにJR中央本線の線路にぶち当たります。その線路を跨線橋で渡ります。真っ直ぐ伸びる2本の線路。なかなかいい景色です。
跨線橋を渡り終えると左へ折れ、すぐに旧中山道に戻ります。
薮原宿内はたびたび発生した大火のため、往時の面影はほとんど残っていません。当時は「お六櫛(おろくぐし)」の産地として栄えたのですが、現在では需要の減少とともに職人の数も少なくなってしまっています。近年、その伝統技術を受け継いでいくための「お六櫛研究会」が結成され、櫛材の育成にも力が注がれているのだそうです。
100メートルほど歩くと「薮原宿本陣跡」と記された標柱が建てられています。本陣は木曽氏家臣の古畑十右衛門が代々勤め、木曽十一宿の中でも最大規模の本陣でした。間口14間半(約26メートル)、奥行き21間(約39メートル)というから、かなりの大きさの建物であったと推察されます。皇女和宮も鳥居峠を越える前に宿泊しています。
薮原宿も、隣の奈良井宿ほどではありませんが、宿場の風情を色濃く残しています。
慶長13年(1698年)創業という「旅籠こめや」が今も旅館として営業を続けています。ガラス戸が嵌められていますが、建物は明治の大火後に須原宿から移築したものだそうです。
「旅籠こめや」の対面にある造り酒屋は 「湯川酒造」。なんと慶安3年(1650年)の創業というから370年近くも続く老舗です。銘酒「木曽路」の蔵元です。明治期に入るとアララギ派の歌人が湯川酒造に集って酒を酌み交わしたこともあったと伝えられています。
さらに湯川酒造の対面、斜め先の建物は「元旅籠日野屋」です。この日野屋も明治の大火後に建てられたのですが、古民家の趣きがたっぷり残っています。
湯川酒造や日野屋がある丁字路から先はごく普通の商店街になっていますが、ちょっと歩くと「防火高塀跡」を見ることができます。元禄8年(1695年)7月、薮原宿のほとんどが消失する大火がありました。その後、宿再建の際、防火対策として、各個1間につき1寸の割合で提供しあって、上横水と下横水(現在のニ又)の2箇所に四ツ辻の広小路を作りました。文化年間にはさらに中心街の火災に配慮して、上横水の広小路には北側に土を盛り、石垣を築き、その上に高い土塀を作って防火壁としました。当時はこれを「高塀」と呼んでいました。現在、石垣の一部のみが残されています。
消火設備が十分でないどの宿場も火災には神経を使っており、用水路に工夫をしたり、建物に卯建(うだつ)を付けるとか、火除け広場を確保するなどしています。この薮原宿のような高土塀による防火対策は珍しい事例です。ここで出てきた「広小路」ですが、東京にも上野広小路や大崎広小路といった地名や由来する駅名のところがあります。この広小路も元は江戸幕府が明暦3年(1657年)に起きた明暦の大火をきっかけに推進した火除地の一種です。火災の類焼を食い止める目的で大火後の復興作業の中で上野や両国など江戸の町々に設置され、続いて3年後の万治3年(1660年)に大火にあった名古屋にも同様の通りが設置されました。また、この時、薮原宿のように広小路に沿って火除土手(ひよけどて)が設けられたりもしましたが、現在では失われてしまったところがほとんどです。
藪原宿にぎわい広場「笑ん館(わらんかん)」です。ここは木祖村役場が運営する文化交流施設です。この日の昼食はこの「笑ん館」の中のホールをお借りして、お弁当をいただきました。
木曽郡木祖村、同じ「きそ」でも郡の漢字と村の漢字は異なっています。村名は、木曽郡を縦断する木曽川の源流の地であることから、木曽の祖という意味を込めて「木祖」と名付けられました。
村の木曽川源流部に広がる水木沢天然林は、ほとんどが樹齢200年以上という広大な原生林です。良木の産地である木曽谷は、江戸時代初期に城郭建築や河川整備のために乱伐され、多くの木を失うことになりました。その反省から森林資源を保護するため、薮原を治めた尾張藩が「留山制度」という伐採を禁止する制度を定めました。禁止されたのは、ヒノキ、サワラ、ネズコ、アスナロ、コウヤマキで、それらは「木曽五林」と呼ばれ、制度の徹底ぶりは「木一本首一つ」と言われるほど厳しいものだったといわれています。
この日の「笑ん館」では木祖村の美しい風景を題材にしたアマチュア写真家の皆さんの作品の展示会が開催されていました。どれもプロが撮った作品ではないか…と思えるほどの素晴らしい作品だらけです。アマチュア写真家の皆さんの腕も素晴らしいのでしょうが、なんと言っても木祖村の素晴らしい風景には圧倒されます。
また、「笑ん館」では、「お六櫛」の名産地である薮原らしく地元の工芸家が作った様々な木工品が展示販売されています。
「笑ん館」の前にある「NPO法人 木曽川・水の始発駅」に属する「食の塩梅」さんです。女性の参加者の皆さんがこのお店の「そば実かりんとう」が美味しいと言ってゾロゾロと購入に行かれたので、私もその列に並んで、家族のお土産用にその「そば実かりんとう」と手作りのぶどうジャムを購入しました。ぶどうジャムはワイン用の収穫が終わった後に残ったブドウを利用したもので、木なりでしっかり熟した実を利用したこの時期ならではの限定品なのだそうです。買って帰ってさっそく食してみたのですが、さすがに完熟ブドウを使った手作りジャム、温かみが感じられる甘さで、美味しかったです。クッキー風の「そば実かりんとう」はすぐに家族に食べられてしまったので、私は一口も食べておりません。
また、「木曽川・水の始発駅」というNPO法人名が気に入っちゃったので、調べてみました。いろいろな活動をなさっているようです。
NPO法人 木曽川・水の始発駅HP
昼食を終え、街道歩きを再開しました。歴史を感じさせる古い町屋が建っています。
先ほどの「防火高塀跡」もそうですが、ここ藪原宿では防火対策用として「水場」が多く設けられています。右の写真は「二又の水」。ここ木曽郡木祖村は木曽川の源流の地であることから「源流の水」と刻まれています。
「宮川漆器店」です。宮川家は140年続いた医者の家で、江戸時代から明治時代にかけての医師の道具等が、奥の土蔵で公開されているのだそうです。
藪原宿でも各家々に昔の屋号がかかっています。
その先数分歩くと薮原宿の名産品「お六櫛」を扱う「お六櫛問屋篠原商店」があります。
「お六櫛」の由来は以下の通りです。頭痛に悩んでいた美人で評判の旅籠の娘「お六」は、悩み続けていた持病の頭痛を治したい一心で御嶽山に詣でて願をかけました。 そしてお告げに従って、「ミネバリの木」で作った櫛を使い朝夕に黒髪を梳いてみたところ、不思議なことに病は全快しました。そこでお六は、この御利益を同じく頭痛に悩む人々にも分けてあげたいと願い、「ミネバリの木」で作った櫛を売ってみました。 すると、中山道の難所・鳥居峠を越えて行き交う東西の旅人の間で評判となり、木曽路・薮原宿の名産「お六櫛」として全国的に知られるようになりました。
「お六櫛」の材料になるミネバリの木は、先ほどこの薮原宿に来る途中の鳥居峠のサミット(頂上)付近で植栽されているところを見かけましたが、カバノキ科の落葉高木で、成長がとても遅く1mm太るのに3年はかかると言われています。 それだけに目の詰まった木質となり、斧が折れるほど硬いことからオノオレ(斧折れ)カンバとも呼ばれるくらいです。 その硬さゆえ、印材やソロバン玉、ピアノの鍵盤などに使われてきました。硬さのほかに独特の粘りが特長で、精緻な梳き櫛の材料として、他のどんな木材よりも優れているといわれています。 薮原宿の「お六櫛」はこのミネバリの木を材料に、職人が1つ1つ精緻な手仕事で仕上げていきます。
かつては全国各地へ年間100万枚も出荷していたと言われるお六櫛ですが、今はこれを手作りする後継者不足が深刻なのだそうです。
奈良井宿のところで渓斎英泉が描いた浮世絵『木曾街道六十九次』の「奈良井宿」のところに「名物 お六櫛」の文字が書かれているという重大な誤りがあることを指摘しましたが、まぁ〜それだけ「お六櫛」は、当時、江戸をはじめ全国各地で女性が喜ぶ有名なブランド品だったってことなのでしょう。渓斎英泉は歌川広重(安藤広重)と違って必ず現地取材をした上で描いたと言われています。もしかしたら、渓斎英泉は奈良井宿で「お六櫛」をお土産に買っちゃったのかもしれません。(いっぽう、当時超売れっ子絵師だった歌川広重は自分では現地取材をせずに、人から聞いた話だけで各宿場の絵を描いたと言われています。)
都会では見られなくなった朱色鮮やかな郵便ポストがあります。その隣に「薮原宿高札場跡」の標柱が建てられています。このあたりが宿場の終わりです。
旧中山道はその先を右に下っていき、お墓の前を通って先ほど分かれた道に合流します。
JR藪原駅です。旧中山道はこのJR藪原駅の手前で線路の反対側に行くのですが、線路に阻まれて行くことができません。そのため、若干迂回します。
3~4分歩くとD51形蒸気機関車が静態保存で展示されています。その前に自然石の「一里塚跡碑」が据えられています。ここは江戸の日本橋から数えて66里目の「薮原一里塚」があったところです。一里塚の後方にはD51型蒸気機関車が静態保存されています。前述のように旧中山道はここではなく、JR藪原駅の手前で線路を斜めに横断していた筈なので、ここにある「薮原一里塚」の跡碑は中央本線を建設する際にこの場所に移設したものだと思われます。
かつての中央本線の長野県内区間はD51形蒸気機関車の独壇場のようなところでした。動輪が左右4つ付いたD51形蒸気機関車は元々は貨物列車牽引用に設計・開発された蒸気機関車だったのですが、中央本線の長野県区間は急な勾配のところも多く、馬力の大きなD51形蒸気機関車が貨物列車だけでなく、旅客列車も牽引していました。ここに静態保存されているD51形蒸気機関車ですが、保存状態も良く、これも奈良井宿に静態保存されているC12形蒸気機関車と同様、中のボイラーさえ状態が良ければ、修理して動かすことができそうだな…なぁ〜んて思っちゃいました。
SLの後ろにある立派な建物は木祖村民センターです。
木祖村民センターの前でしばし休憩をとった後、街道歩きを再開しました。
JR中央本線(西線)の線路の高架の下を潜ります。高架を潜ったところで右折します。この道路が旧中山道です。振り返ってJR藪原駅の方向を見ると、いかにも旧中山道と思えるようなS字カーブを描いて道路が延びています。
すぐに国道19号線と合流します。ここからは国道19号線を歩きます。
……(その7)に続きます。
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藪原宿(やぶはらじゅく)は中山道で江戸の日本橋から数えて35番目の宿場です。中山道の難所であった鳥居峠を控えた麓の宿として、また高山へ向かう飛騨街道(奈川道)の追分の宿でもあったため、飛騨から野麦峠を越えてやって来る女工たちが休息する場所でもありました。さらにはお六櫛の生産地としても栄えた宿場町でした。薮原宿は木曽川源流の地です。現在の「木祖村」の地名は、木曽の「祖(おや)」という意味で名付けられました。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によると、藪原宿の宿内家数は266軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒で宿内人口は1,493人だったそうです。しかし、明治期の大火で町並みの大半を焼失し、近年は建物の改修が進んだこと などから往時の面影は一部に残っているだけになっています。
集落の間の緩い坂道を下ってくる途中で、松本平地方に多く見られる“雀オドリ”の原型とも言われる「棟飾り」を付けた家があります。神社の屋根の鰹木にも似ていますが、このようなスッキリとしたデザインもいいものです。
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「天降社(てんこうしゃ)」です。この神社は薮原神社例大祭(薮原まつり)の上獅子屋台の出発の場所でもあり、伊勢の両大神宮と関わりが深いことから、地元では「大神宮様(だいじんぐうさま)」とも呼ばれています。この天降社の境内の一角に樹高約14メートル、幹の周囲2.45メートル、枝張り約10メートルの「オオモミジ」と呼ばれるカエデ(楓)の大樹があります。この神社の森は、古来「大神宮の森」と称され、カエデ(楓)の老木が植生し、街道筋にあるため有名であったといわれています。枝張りから推察するに紅葉真っ盛りの時期はさぞや見事だろうと思われますが、残念ながらこの日は既に12月に入り、葉は全て落葉しちゃってました。
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もう少し下ると「原町清水」と言われる水場があり、傍らに水神様が祀られています。古くから鳥居峠を越える旅人の喉を潤してきた清水ですが、今でも飲み水として使用されているのだそうです。
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原町の集落の家並みの中を緩い下り坂で下っていきます。
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さらに坂道を下り、JR中央本線の手前のT字路で右の坂道を上がると「尾州御鷹匠役所跡」があり、標柱が建てられています。尾州御鷹匠役所とは尾張藩の鷹の巣山の管理、鷹の飼育、調教を行う役所のことです。尾張藩御鷹匠役所は初め妻籠宿にあったのですが、伊那川にあった鷹の飼育場も統合して、享保15年(1730年)にここ薮原宿に移されました。毎年5、6月になると尾張藩の鷹匠方の役人が名古屋から出張してきて、鷹の巣を見つけ、付近で捕獲した鷹の雛の飼育や調教、鷹の公儀献上、巣山(御巣鷹山と呼ばれています)の管理及び巡視等を木曽代官の山村家の家臣や土地の人々の協力を得て行っていました。厳しい自然環境の中に棲みつき育ったここの鷹は優秀で、生まれた幼鷹とともに鷹狩りを好む尾張藩主をはじめ将軍家に人気があったと言われています。この役所は明治4年(1871年)に廃止されるまで存続しましたが、土地の人々からは「おたかじょ」と呼ばれて親しまれていました。眼下に薮原宿、木曽川源流、中央本線(西線)が一望できます。現在は、一般の方の住居として使われています。
ここで疑問に思われる人がいらっしゃるかと思います。何故、ここが尾張藩なのか?…と。木曽の薮原宿の周辺は元々は幕府直轄の天領でしたが、徳川家康の九男で尾張藩の初代藩主であった徳川義直が結婚した際、結婚祝いとして徳川家康からこの地を与えられ、以降、尾張藩が飛び地の領地として管理していました。
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尾州御鷹匠役所跡のY字路から少し下ると「飛騨街道(奈川道)」との追分となります。「飛騨街道追分」と記された標柱が建てられています。そのまま直進すると中山道で西方向へ下る細い坂道が飛騨街道です。飛騨街道は野麦峠を越えて飛騨高山へ通じる道筋で、甚だ険岨で馬の往来も厳しい程の険しい道のりだったと説明版には書かれています。今も旧飛騨街道(奈川道)が少しだけ残っています。明治44年(1911年)に中央本線が開通すると、飛騨地方から岡谷の製糸工場へ向かう女工達がこの道を通ったと言われています。ここから分岐して伸びるこの細い道が飛騨街道(奈川道)です。
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旧中山道はJR中央本線(西線)の線路に遮られて分断されています。ここから見ると、中山道が線路によって分断されている様子がよく分かります。
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仕方がないので、この追分のところからほんのちょっとだけ飛騨街道(奈川道)に入ります。水神と津嶋神社の石塔が立っているところが旧街道らしいところです。
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すぐにJR中央本線の線路にぶち当たります。その線路を跨線橋で渡ります。真っ直ぐ伸びる2本の線路。なかなかいい景色です。
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跨線橋を渡り終えると左へ折れ、すぐに旧中山道に戻ります。
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薮原宿内はたびたび発生した大火のため、往時の面影はほとんど残っていません。当時は「お六櫛(おろくぐし)」の産地として栄えたのですが、現在では需要の減少とともに職人の数も少なくなってしまっています。近年、その伝統技術を受け継いでいくための「お六櫛研究会」が結成され、櫛材の育成にも力が注がれているのだそうです。
100メートルほど歩くと「薮原宿本陣跡」と記された標柱が建てられています。本陣は木曽氏家臣の古畑十右衛門が代々勤め、木曽十一宿の中でも最大規模の本陣でした。間口14間半(約26メートル)、奥行き21間(約39メートル)というから、かなりの大きさの建物であったと推察されます。皇女和宮も鳥居峠を越える前に宿泊しています。
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薮原宿も、隣の奈良井宿ほどではありませんが、宿場の風情を色濃く残しています。
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慶長13年(1698年)創業という「旅籠こめや」が今も旅館として営業を続けています。ガラス戸が嵌められていますが、建物は明治の大火後に須原宿から移築したものだそうです。
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「旅籠こめや」の対面にある造り酒屋は 「湯川酒造」。なんと慶安3年(1650年)の創業というから370年近くも続く老舗です。銘酒「木曽路」の蔵元です。明治期に入るとアララギ派の歌人が湯川酒造に集って酒を酌み交わしたこともあったと伝えられています。
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さらに湯川酒造の対面、斜め先の建物は「元旅籠日野屋」です。この日野屋も明治の大火後に建てられたのですが、古民家の趣きがたっぷり残っています。
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湯川酒造や日野屋がある丁字路から先はごく普通の商店街になっていますが、ちょっと歩くと「防火高塀跡」を見ることができます。元禄8年(1695年)7月、薮原宿のほとんどが消失する大火がありました。その後、宿再建の際、防火対策として、各個1間につき1寸の割合で提供しあって、上横水と下横水(現在のニ又)の2箇所に四ツ辻の広小路を作りました。文化年間にはさらに中心街の火災に配慮して、上横水の広小路には北側に土を盛り、石垣を築き、その上に高い土塀を作って防火壁としました。当時はこれを「高塀」と呼んでいました。現在、石垣の一部のみが残されています。
消火設備が十分でないどの宿場も火災には神経を使っており、用水路に工夫をしたり、建物に卯建(うだつ)を付けるとか、火除け広場を確保するなどしています。この薮原宿のような高土塀による防火対策は珍しい事例です。ここで出てきた「広小路」ですが、東京にも上野広小路や大崎広小路といった地名や由来する駅名のところがあります。この広小路も元は江戸幕府が明暦3年(1657年)に起きた明暦の大火をきっかけに推進した火除地の一種です。火災の類焼を食い止める目的で大火後の復興作業の中で上野や両国など江戸の町々に設置され、続いて3年後の万治3年(1660年)に大火にあった名古屋にも同様の通りが設置されました。また、この時、薮原宿のように広小路に沿って火除土手(ひよけどて)が設けられたりもしましたが、現在では失われてしまったところがほとんどです。
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藪原宿にぎわい広場「笑ん館(わらんかん)」です。ここは木祖村役場が運営する文化交流施設です。この日の昼食はこの「笑ん館」の中のホールをお借りして、お弁当をいただきました。
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木曽郡木祖村、同じ「きそ」でも郡の漢字と村の漢字は異なっています。村名は、木曽郡を縦断する木曽川の源流の地であることから、木曽の祖という意味を込めて「木祖」と名付けられました。
村の木曽川源流部に広がる水木沢天然林は、ほとんどが樹齢200年以上という広大な原生林です。良木の産地である木曽谷は、江戸時代初期に城郭建築や河川整備のために乱伐され、多くの木を失うことになりました。その反省から森林資源を保護するため、薮原を治めた尾張藩が「留山制度」という伐採を禁止する制度を定めました。禁止されたのは、ヒノキ、サワラ、ネズコ、アスナロ、コウヤマキで、それらは「木曽五林」と呼ばれ、制度の徹底ぶりは「木一本首一つ」と言われるほど厳しいものだったといわれています。
この日の「笑ん館」では木祖村の美しい風景を題材にしたアマチュア写真家の皆さんの作品の展示会が開催されていました。どれもプロが撮った作品ではないか…と思えるほどの素晴らしい作品だらけです。アマチュア写真家の皆さんの腕も素晴らしいのでしょうが、なんと言っても木祖村の素晴らしい風景には圧倒されます。
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また、「笑ん館」では、「お六櫛」の名産地である薮原らしく地元の工芸家が作った様々な木工品が展示販売されています。
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「笑ん館」の前にある「NPO法人 木曽川・水の始発駅」に属する「食の塩梅」さんです。女性の参加者の皆さんがこのお店の「そば実かりんとう」が美味しいと言ってゾロゾロと購入に行かれたので、私もその列に並んで、家族のお土産用にその「そば実かりんとう」と手作りのぶどうジャムを購入しました。ぶどうジャムはワイン用の収穫が終わった後に残ったブドウを利用したもので、木なりでしっかり熟した実を利用したこの時期ならではの限定品なのだそうです。買って帰ってさっそく食してみたのですが、さすがに完熟ブドウを使った手作りジャム、温かみが感じられる甘さで、美味しかったです。クッキー風の「そば実かりんとう」はすぐに家族に食べられてしまったので、私は一口も食べておりません。
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また、「木曽川・水の始発駅」というNPO法人名が気に入っちゃったので、調べてみました。いろいろな活動をなさっているようです。
NPO法人 木曽川・水の始発駅HP
昼食を終え、街道歩きを再開しました。歴史を感じさせる古い町屋が建っています。
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先ほどの「防火高塀跡」もそうですが、ここ藪原宿では防火対策用として「水場」が多く設けられています。右の写真は「二又の水」。ここ木曽郡木祖村は木曽川の源流の地であることから「源流の水」と刻まれています。
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「宮川漆器店」です。宮川家は140年続いた医者の家で、江戸時代から明治時代にかけての医師の道具等が、奥の土蔵で公開されているのだそうです。
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藪原宿でも各家々に昔の屋号がかかっています。
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その先数分歩くと薮原宿の名産品「お六櫛」を扱う「お六櫛問屋篠原商店」があります。
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「お六櫛」の由来は以下の通りです。頭痛に悩んでいた美人で評判の旅籠の娘「お六」は、悩み続けていた持病の頭痛を治したい一心で御嶽山に詣でて願をかけました。 そしてお告げに従って、「ミネバリの木」で作った櫛を使い朝夕に黒髪を梳いてみたところ、不思議なことに病は全快しました。そこでお六は、この御利益を同じく頭痛に悩む人々にも分けてあげたいと願い、「ミネバリの木」で作った櫛を売ってみました。 すると、中山道の難所・鳥居峠を越えて行き交う東西の旅人の間で評判となり、木曽路・薮原宿の名産「お六櫛」として全国的に知られるようになりました。
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「お六櫛」の材料になるミネバリの木は、先ほどこの薮原宿に来る途中の鳥居峠のサミット(頂上)付近で植栽されているところを見かけましたが、カバノキ科の落葉高木で、成長がとても遅く1mm太るのに3年はかかると言われています。 それだけに目の詰まった木質となり、斧が折れるほど硬いことからオノオレ(斧折れ)カンバとも呼ばれるくらいです。 その硬さゆえ、印材やソロバン玉、ピアノの鍵盤などに使われてきました。硬さのほかに独特の粘りが特長で、精緻な梳き櫛の材料として、他のどんな木材よりも優れているといわれています。 薮原宿の「お六櫛」はこのミネバリの木を材料に、職人が1つ1つ精緻な手仕事で仕上げていきます。
かつては全国各地へ年間100万枚も出荷していたと言われるお六櫛ですが、今はこれを手作りする後継者不足が深刻なのだそうです。
奈良井宿のところで渓斎英泉が描いた浮世絵『木曾街道六十九次』の「奈良井宿」のところに「名物 お六櫛」の文字が書かれているという重大な誤りがあることを指摘しましたが、まぁ〜それだけ「お六櫛」は、当時、江戸をはじめ全国各地で女性が喜ぶ有名なブランド品だったってことなのでしょう。渓斎英泉は歌川広重(安藤広重)と違って必ず現地取材をした上で描いたと言われています。もしかしたら、渓斎英泉は奈良井宿で「お六櫛」をお土産に買っちゃったのかもしれません。(いっぽう、当時超売れっ子絵師だった歌川広重は自分では現地取材をせずに、人から聞いた話だけで各宿場の絵を描いたと言われています。)
都会では見られなくなった朱色鮮やかな郵便ポストがあります。その隣に「薮原宿高札場跡」の標柱が建てられています。このあたりが宿場の終わりです。
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旧中山道はその先を右に下っていき、お墓の前を通って先ほど分かれた道に合流します。
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JR藪原駅です。旧中山道はこのJR藪原駅の手前で線路の反対側に行くのですが、線路に阻まれて行くことができません。そのため、若干迂回します。
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3~4分歩くとD51形蒸気機関車が静態保存で展示されています。その前に自然石の「一里塚跡碑」が据えられています。ここは江戸の日本橋から数えて66里目の「薮原一里塚」があったところです。一里塚の後方にはD51型蒸気機関車が静態保存されています。前述のように旧中山道はここではなく、JR藪原駅の手前で線路を斜めに横断していた筈なので、ここにある「薮原一里塚」の跡碑は中央本線を建設する際にこの場所に移設したものだと思われます。
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かつての中央本線の長野県内区間はD51形蒸気機関車の独壇場のようなところでした。動輪が左右4つ付いたD51形蒸気機関車は元々は貨物列車牽引用に設計・開発された蒸気機関車だったのですが、中央本線の長野県区間は急な勾配のところも多く、馬力の大きなD51形蒸気機関車が貨物列車だけでなく、旅客列車も牽引していました。ここに静態保存されているD51形蒸気機関車ですが、保存状態も良く、これも奈良井宿に静態保存されているC12形蒸気機関車と同様、中のボイラーさえ状態が良ければ、修理して動かすことができそうだな…なぁ〜んて思っちゃいました。
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SLの後ろにある立派な建物は木祖村民センターです。
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木祖村民センターの前でしばし休憩をとった後、街道歩きを再開しました。
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JR中央本線(西線)の線路の高架の下を潜ります。高架を潜ったところで右折します。この道路が旧中山道です。振り返ってJR藪原駅の方向を見ると、いかにも旧中山道と思えるようなS字カーブを描いて道路が延びています。
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すぐに国道19号線と合流します。ここからは国道19号線を歩きます。
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……(その7)に続きます。
執筆者
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株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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